0x5(Zero by five)
『じゃあ、今週は帰るから』
「はーい。何か用意するものとかある?」
『いや。ないよ。まだまだこっちは寒いしね』
電話の向こう側は別に必要がないだろうにリカに合わせてひそひそと押さえた声が続く。
リカの方は、リビングに続く和室で眠る子供を起こさないように、普段より声を落としていた。
『リカも、早めに休んで』
仕事忙しいんでしょ?
リカが忙しいときは、そんな気遣いをかけてくる大祐が最後の一言をいわなかった。
お互いに電話越しでは何も言わないと決めているような間があいて、大祐さんも寒いから早く休んで、と言って電話を切った。
札幌の部屋は、古い建物の中でもリフォームされた部屋が当たったので、部屋の中はきれいな方だ。相変わらず物が少ないということは変わらないが、それでも一人で暮らしていたころとは違う。
リカたちが来た時の荷物があちこちにそっと置かれている。
おもちゃなどはリカが帰るときにきちんと片づけていくのだが、それでもテレビの前にチョロQと同じ方式で走る飛行機のおもちゃがあったり、ベッドの脇には家族写真が置いてあった。
誕生日に記念として写真スタジオでとった子供の写真はキーホルダーになっているから車の鍵と一緒だ。
携帯のホーム画面で笑っているリカの顔を眺めながら、大祐は胡坐のまま倒れ込んだ。
産休明けのリカが復帰してまだ一年たっていない。保育園がなかなか決まらなくて、4月ではなく、1か月遅れで保育園に入ることができた後、基本的には定時での勤務ということで仕事に戻った。
そんなリカがしばらく前からピリピリしている。
『あの日』が近いからだ。
「……早い、のかなぁ」
携帯の画面に話しかけても返ってくる声はない。
一年目に再会して、二年目はまだどちらからもぎこちなく会えなかった時間の話をするだけだった。
三年目は、まだ子供ができたこともわからなかったが、たくさん話した気がする。そして、去年は、ほとんど会話にならなかった。
産後、ようやく落ち着いてきたとはいえ、なかなか保育園も決まらず、復帰の見通しも立たない不安な時期で、しかも慣れない育児にリカが一番悩んでいた頃である。
自分自身でもコントロールできないようでひどく不安定だった。
たわいない話のはずが、どこに地雷があるのかわからなくてうっかりした大祐の一言でリカが大泣きすることもあった。テレビを見ているだけで泣き出してしまい、そこに大祐が帰ってきて驚く、ということもあったほどだ。
「ごめ……。驚かせて」
「そんなことはいいけど……。どした?」
「ううん、なんでもない。テレビ見ててつい……」
ぼろぼろと泣くリカが、泣きながら淡々と子供にミルクを上げているところを見て、大祐はぎゅっと子供ごとリカを抱きしめた。
そこから、さらに一年がたって、五年目のあの日が来る。
特番をまかされたようで、仕事を持って帰ることも多いと言っていたが、引き受けた時のリカが呟いていた。
『あの日は、たくさんの人にとってもそうだろうけど、私の人生の中で意味を持つ日だから』
定時上がりのリカにとっても、特番は日常的なルーチンの番組よりはやりやすいだろうというのもあったのだろうが、子供を抱えて大変だったろうと思う。
思考錯誤を繰り返し、時には都内に住むリカの母親の力を借りることもあったが、なんとか最近はリズムができてきたらしい。
ふと思い出して、携帯のメールを開く。
放送日が決定したと連絡をもらっていたのをまだ予約していなかった。
地方ローカルになると時間が変わることもあるが、さすがに今回は同じだ。DVDの予約をして、携帯をもったままベッドに潜りこむ。
リカ達が来た時は、布団を敷くから、一気に部屋の中が明るく賑やかになるのに、一人でいるときはしんとした部屋が寒く感じる。
目を閉じると疲れもあって、あっという間に夢の中に落ちてしまった。
今のポジションは、大祐にとってとても都合がいい。
連絡幹部という外も中も含めて調整がメインの仕事である。顔が広ければ広いだけ調整もしやすいし、現地に知人がいればなおさらだ。それに、空幕広報にいたおかげで民間との調整もある程度は慣れている。
そんな立場だけに、リカだけではなく、大祐もこのところ多忙ではあった。
航空祭シーズンより、はるかにましとはいえ、震災関連の調整はいつも以上に気を使う。
リカや、昔の広報室メンバーと話がしたい。
夢の中で、ジョッキを片手に笑っている皆にいじられながらも腹の底から大祐は笑っていた。
近頃では毎日、という訳にもいかなくなってきた電話を東京のリカも眺めていた。
ホーム画面はブルーの写真だ。堂々と大祐の写真を入れられるほど、携帯のプライベート色をみせてはいない。
先週までは、五月や六月というくらいの温かさだったのに、急に寒さが戻ってきた東京も今夜は雨が降っている。
明日の朝は一桁台の気温だというから、温度を押さえてこのままエアコンはつけておくつもりだ。
短時間でつけたり消したりを繰り返すよりも、節約になるらしい。
今日の分の洗濯物を干した後、乾いた分を畳みながら明日の分の保育園バックを用意する。
―― 早く帰れるといいな……
そう思いながら、携帯を着ているパーカーのポケットに入れて、立ち上がった。戸締りを確認して、誰もいない夫婦の部屋だった寝室をのぞく。冷え切った部屋の入ってすぐのところには、大きな防災リュックの他に小さなリュックが並べて置いてあった。
大祐がいない時にすぐに子供を連れて避難できるように、去年の夏に大祐の転勤が決まった時から用意したものだ。
いつかはあると思っていた転勤の話をきいたリカの覚悟でもあった。
その分なのか、大祐のほうも大抵の事は一人で対応してしまうからリカが手伝うことはほとんどない。公的機関に申請が必要な場合でも、帰って来た時に一人できちんと準備してこなしてしまう。
引っ越しの時でさえ、リカには何もしなくていいと言い切った。
「子供の面倒見てくれるだけでいい。これから仕事にも復帰したらもっと大変になるのに、俺は傍にいられないから、その分、リカの手を煩わせたくない」
思いのほか強くそう言って大祐はすべてを決めていったが、それでも必要なことはきちんと相談してくれる。
仲良くなった自衛官の奥様達にはこの上なく羨ましがられた。
「あり得ないわ―。空井さん、かっこいいだけじゃなくてもう素敵!!」
「そうよ!うちのなんて、できるくせに何一つしないのよ?最近じゃ、娘に甘えん坊将軍って言われるんだから」
働いていても、そうでなくても、苦労話にはきりがないらしく、リカはどちらかというと羨ましがられるネタになる一方だ。
そんなだから、贅沢な悩みだと言われそうで口には出さなかったが、やはり大祐に会いたい、と言いそうになる。
―― だって……
母親になって、そんな甘ったれたことではダメだと自分に言い聞かせはするが、特に今週は帰ってきてくれればいいのにと思う。
本当は話したかった。
たくさん、聞いてほしかった。
番組をすすめるうちに泣いてしまったことも、何もかも。
電話では伝わらないもどかしさがある。
忙しくて、気が張っていることには自覚があった。子供に向けないようにすればするほど、忙しくなればなるほど、そして、日にちが立つほどに、ピリピリしてしまい、自分でも持て余し気味だった。
和室に敷いた布団にそうっと潜りこんだリカは、枕元に携帯を置いて暗くなった部屋の中で深く息を吐いた。
朝が来ないんじゃないかと本気で思った。
―― 大祐さん。空は……繋がってるね
目を閉じたリカが、ゆっくりと夢の中に落ちたのは大祐と同じ頃だった。
翌日、本当に嘘のように寒い一日だった。
保育園を経由したリカは、冬コートから一段薄いコートにしていたから、厚手のショールをぐるりと巻いて局に向かう。
いつもと変わりない朝だ。
「おはよう」
「おはようございます」
朝はまだスタッフの数もそう多くはない。放送中の番組もある中で、自分の席に鞄を置いたリカは、コートを脱いだ。
「稲葉さん」
「あ、おはよう。珠輝。早いね」
「そんなことないですよ。今日は中ですし」
「そっか。今日寒いよねぇ」
まずはPCを立ち上げて、メールをチェックする。その間に、気を利かせた珠輝がコーヒーを入れてくれた。
「なんか、あの日みたいな寒さですよね」
リカのそばから離れがたいのか、いつになく窓の外を見ながら珠輝はぼんやりと呟いた。
「早いのか、遅いのかよくわかんないです」
変なこと言っちゃってすいません。
そう呟いた珠輝が自分の席に戻っていくのを見送って、リカはメールと今日のニュースに目を通した。
放送開始の直後、黙祷から始まった番組が終わって、いつもと変わらない時間に帰り支度を済ませたリカが歩き出す。
朝も寒かったが、やはり夕方になってもほとんど変わらない寒さだ。
―― これから保育園に行って、夕食の支度を……
「嘘……」
「お疲れ様。久しぶりに迎えに来たよ」
局を出てすぐの広場にスーツ姿の大祐が立っていた。
駆け寄ったリカと笑みを浮かべた大祐は自然に伸ばした手をつなぐ。
「こっちにくる定期便にのってきたんだ。ダテに調整役やってるわけじゃないさ」
「もう!教えてくれたらよかったのに」
「ははっ。教えたらやっぱ恥ずかしいよ。俺がリカに会いたくて無理しただけ」
悪戯っぽく笑った大祐に、何が悲しいわけでもないのに、ぶわっと感情が溢れてくる。
「ああ。やだ……、違うの。なんでもないの」
「……うん。やっぱり来てよかったよ。リカが泣いてるんじゃないかと思ったんだ」
溢れてしまった涙に自分でも驚いたリカが慌てて涙を拭おうとする。
つないだ手と反対の手で大祐が涙を拭った。
「ふ……。大祐さんのほうがよく泣くくせに」
「そうでもないよ?最近はリカのほうが涙もろいんじゃない?」
からかうような口調に責めるような拳が大祐の胸を打つ。それほど強くもない拳にぽんぽん、と頭を撫でた。
「大丈夫だよ。ちょっと俺が早く帰って来ただけだからさ」
「……うん」
「一緒に迎えに行こうよ」
「ふふ、驚くよ。きっと」
大きく息を吐いて、涙を収めたリカと一緒に大祐は家の近くの保育園に向かう。
結婚してしばらくたって、賃貸のリカが住んでいた部屋から少し広い部屋に引っ越していた。
駅は局から少し遠くなったが、数駅の差だ。
「最近、保育園も色々あるのよ」
「そうなの?」
「うん」
「教えてよ」
「すごくちっちゃなことよ」
毎度のことながら、それを知りたいんだよ、という大祐と、自分の目で見て、というリカの言い合いが始まる。
「毎日電話してるのに」
「私が言うんじゃなくて、大祐さんが帰って来たときに感じればいいのよ」
「リカの言うことならいいんだってば」
言い合いながらもつないだ手は変わらない。
最寄り駅について、保育園に向かうと早々に帰っていった子供たちのあと、第二陣、それから閉園間際になる組とそれぞれあるらしい。
「うちは、第二陣か、ラストチームかなぁ」
「へぇ。だいたい決まってるの?」
「うん。仕事の終わり時間がみんなあるから」
門をぬけて、保育園に入ると残っていた子供たちが、親が来たのかと一斉に顔をむけてくる。
「お世話様です」
「空井さん、お疲れ様です。瞬くーん、唯ちゃーん」
リカの顔を見た保育士に呼ばれて、部屋の隅のほうで遊んでいた二人が駆け寄ってくる。
「ままー」
1歳をすぎて、言葉もたくさん出るようになってきた二人がリカに駆け寄ってくるのを部屋に入らずに見ていた大祐がそっと顔を見せた。
「ぱぱ!!」
「あら。瞬くん、唯ちゃん、パパ来てくれた!嬉しいねー」
リカの周りにまとわりついていた二人が大祐の足にそれぞれ抱きつく。
「やあ、見つかっちゃったなー」
「ぱぱ!みて、みーて」
瞬と唯では、今は唯のほうがたくさん話すし強い。
ぐいっと瞬を押しのけて自分が遊んでいたところに連れて行こうとする唯に瞬はされるがままで、リカのほうへと戻っていってその背中に張り付く。
正月に帰って来た後にも、一度帰って来ていたが、ほんの少しだけだったので二人ともかまってもらい足りなかったのだろう。
唯に強引に連れて行かれる大祐を見ながらリカは瞬をぎゅっと抱きしめて、一緒に帰り支度をする。
唯の分もおとなしくリカの手伝いをして、リュックを差し出したり、お手ふきを取ってくる瞬を褒めながら、唯を呼んだ。
「唯!自分のお支度は自分でしなさい」
「や!ぱぱ、してきて!」
「ゆーい!」
ついさっきまで見せていた姿とはかわって、母としてぴしりと厳しい声を出すリカに大祐も笑顔を引っ込めた。
「唯。自分でお支度しなさい」
「や。ぱぱして」
「じゃあ、あれはみんなぱぱのにしていいの?」
「だーーめぇ!」
意地悪!と大祐の肩を加減なく突き飛ばした唯がリカの傍に走っていって瞬が丁寧に入れようとしていた着替えを取り上げて、自分のリュックにぐいっと押し込む。
「ゆい、おたたみしないとだめ」
「いーの!おうちかえったらおせんたくするの」
「だめだよ。ゆいー」
子供二人の言い合いに、どうしても笑いが堪えられなくて大祐が口元を手のひらで隠す。
すすっと近づいた保育士が二人の様子を教えてくれるのを少し背中をまるくして頷きながら聞く。
大祐は保育士たちにもイケメンパパとして人気なのだ。
彼らはリカたちの仕事もわかっているので、たまにしか迎えにこられない大祐が顔を見せると、こぞって二人の様子を教えてくれようとする。
それがありがたくもあり、少し面白くないリカは瞬と唯を宥めて上着を着せるとそれぞれに自分のリュックを背負わせた。
「それじゃあ、お世話様でした!また明日」
「あっ!待って。ありがとうございました」
慌てて後を追う姿に子供たちまで笑い出す。
「瞬君ぱぱ、おいてかれるー」
「唯ちゃんまたねー」
笑い声と共に送り出された一家はにぎやかに家に向かった。
唯と瞬をたくさん笑わせて話をきいて、寝かしつけた後、ようやく腰を下ろす。
「お疲れ様。ビールでも飲む?」
「いや……、リカは?」
「うーん、お茶でも飲もうかな」
「んじゃ俺も」
マグカップだが、中身はお茶というところがらしいなと思いながら、隣にリカが座るのを待って、大祐は録画していたリカの番組をかけた。
空井家の小さなルールのひとつ。リカの番組は必ず録画しておくこと。もちろん、大祐が普段暮らす部屋でも録画はするが、放映が違ったり、なかなか放送されないことも多いからだ。
「楽しみにしてたんだ。あ、楽しみって言うのもちょっとアレだけど」
「うん」
決して震災の番組が楽しみと言うことではなく、どんな番組になるのかが楽しみだった。
二時間の番組はCMを飛ばしながらみれば思いのほかあっという間だ。
「大祐さん?」
「……うん」
泣いてるな、という自覚は大祐もあった。時々顔を流れる涙がむずがゆくて手のひらで何度か拭う。
「座ってられなかったんだよね……」
「そうね。フロアが上のほうだからどこも一緒だけど、男性はモニターが落ちないように押さえてたけど、女性はほとんど動けなかったなぁ」
何度も顔を拭う隣に寄り添う。
「いいね。いくつか……映像提供してる番組も見てるけど、うん……」
防災を語る番組、検証する番組、追悼番組など、震災関連の番組はたくさんある。
そのどれも、想いはさまざまだ。
リカが作ったという番組は、思いのほか笑顔に溢れていた。
「俺は……好きだよ」
その日だけじゃない。
楽しく過ごしているときも、悲しいときも、少し離れてしまった友人のように胸のうちでは話しかけ、会話しているような気がする。
悲しみを思い出すだけじゃなくて、笑顔をあの日に届けたい、という想いに溢れていた。
「リカにあってなかったら俺、どうしてたかなぁ……」
きっと同じように動いただろうが、やっぱり何かが違った気がする。
肩にトン、とリカの頭が寄せられた。
毎日、たくさんのことがあって、日々に追われていても。
「大祐さん。空は繋がってるね」
過去も。未来も。今も。
—-end
5年目に何か書きたいなーとおもって書いてました。
駄文で申し訳ないです。
大祐さんとリカさんの間には双子が生まれてます。それまでの間もいつか書きたいなー。
今しんどいなーと思っても、振り返ったらもっと胸が苦しくなる瞬間はあったと思います。
これからもっとしんどいなーと思う瞬間があるかもしれないです。
それでも空は。