「よう。稲葉」
「藤枝」
「空井君元気?」
挨拶のはずが定型文で返されて、リカが眉をひそめた。
「あのね。毎度毎度、同じこと言わないで」
「いいだろ。別に」
好き勝手にフロアのコーヒーに手を出すことも変わりない。
ふふ、と笑いながらプラカップの端に歯を立てる。タバコは吸わないのに、ついついこういうものを噛んでしまうのは口寂しいからだろうか。
報道アナウンサーになって、ぐっと情報局に顔を出す回数も減りはしたが、今も明日きらりなどのナレーションは続けている。
「珠輝ちゃん、どうよ、最近」
「変わりないですよ?藤枝さんこそ、どうなんですか?」
顔を見合わせてふふふ、と笑いあう姿をみてぶすっとリカが頬を膨らませた。
「なんなのよ」
むくれたリカをみて、珠輝がバインダーを胸に抱えて首を振った。
「このくらいなんてことないじゃないですか。むしろ稲葉さんのほうがびっくりですよ」
「あ~、いいのいいの」
リカの対応がいかにもまずいと言いかけた珠輝にひらひらと藤枝は片手を振る。
「稲葉が珠輝ちゃんみたいな対応できるわけないでしょ?これでもだーいぶましになったんだしさ」
「そりゃそうですけど……。いくら何でもひどくないですか?」
呆れた顔をした珠輝にウィンクする。不器用なのが稲葉リカであり、こうしていじられてくれるからこそ、どこか、ほっとすることも確かなのだ。
幸せなのか、うまくいってるのか。
「あのな。稲葉に駆け引きなんか無理だからいいんだよ」
「駆け引きって、あんたたちみたいなよくわかんない言い合いしないわよ」
無駄だという藤枝にむくれたリカの一言が重なって、藤枝と珠輝はそろって首を振った。
これはダメだ、という仕草の珠輝と肩をすくめて見せた藤枝は、椅子を引き寄せて後ろ向きに腰を下ろす。
「な、それでさ。空井君どう?」
「だからどうってなに!」
にやっと口元が緩むのをカップで隠しながら大きなガラス面に目を向けた。今日も外は灼熱と言えるくらいの暑さらしく、少しでもその熱を遮るべく、ブラインドが引いてある。
「いや。仲良くしてるならいいけど?この前、ごちゃごちゃ言ってただろ」
「ごちゃごちゃって何……」
食い下がった藤枝にいぶかしげな顔を向けたリカが、何か思い当たったのか、少しの間をあけてぱぱぱっと真っ赤になる。
「なっ、仲良くってなにが!べ、別に何もないわよっ」
「ふーん?そういや、お前、最近、長袖とか襟付きのシャツ多いよな?」
「そ、何、違うわよ!別に、なんか、たまたまそうなっただけでっ」
「はいはい。そういうことで」
ひらひらと手を振った藤枝は空になったコーヒーをつぎ足しにドリンク置き場に足を向ける。少しだけ複雑な顔を見せないように背を向けた藤枝は小さく笑った。
―― あーあ。お守りから解放されたわけじゃないけど、このくらいじゃちょっと面白くないよなぁ
ずっと、ずっと。
この不器用な同僚のことを見てきて、めでたく好きな相手と一緒になったことはいいことだが、仕事ぶりも少しずつ変わってきている。
地雷発言も減り、不器用なりに頑張っていることも周囲が認めるようになってきた。
「お待たせ。じゃ、撮りいこうか」
「おう」
リカが立ち上がると、藤枝は残りのコーヒーを手にしたままでナレーション撮りのスタジオに移動する。
小さなブースに入る前に、カップをおいて読み上げる原稿に目を通した。
「ねぇ」
「ん?」
「……やっぱり、男の人の考えることってよくわかんない」
原稿を頭に入れていた目線が一瞬、どこを見ているのかわからなくなって頭が真っ白になる。
「何だって?」
「……このまえ言われたじゃない。その……服とか」
「……ああ」
妙に気が抜けた声を上げた自分がひどく間抜けに思えて、藤枝は小さく咳払いした。
周りに人がいないのをいいことに、リカは途方に暮れたような顔で藤枝を見上げてくる。
「やっぱり、嫌みたいなのよね。でも、そこは女としては一応いろいろあるじゃない。流行りもあるし、さ」
「まあ……ねぇ。何、空井君、そんなに怒ったの?」
「怒った……。うん、まあ、そういう感じ」
妙な含みを持たせたリカに、ふっと藤枝は意味深な笑みを浮かべた。
「じゃあ、さ。そういうのはほら、空幕メンバーの飲み会で諫めてもらうのが一番じゃね?最近、なかったし」
「えっ!!でも、そういうの片山さんとかがいると……」
「いや、そこは鷺坂さんとか、比嘉さんがいれば間に入ってくれるし?槙さんとこが来たら、柚木さんが援護射撃してくれるだろ?」
それはそうだけど、と口ごもるリカに藤枝は携帯を取り出した。
「じゃ、そういうことで連絡しとくな?」
「や、あの、ちょ、それよりほら!仕事仕事!」
―― こんな面白い話を放置なんかできるか
ブースに入る前に飲み会しましょうよ、のメールは打ち終える。一斉送信も登録済みだからサクッと送信しながらブースのドアを閉めた。
「……だからそれはダントツに帝都の稲葉さんだろ」
「それはね。前の東西テレビの担当さんもすっごい可愛いタイプでしたよねぇ」
「かわいいっちゃかわいいけど、あの子はさぁ。もうほら、仕事するっていうより、合コンばっかりセッティングしに来たじゃん」
内局との会議から戻ってきた大祐が広報室に近づいていくとそんな賑やかな話し声が聞こえてくる。
今の空幕には女性隊員はいないので、ちょっと雑談が始まると気の置けない話が始まるのだ。
初めのほうはよく聞こえてなかったので、大祐は苦笑いを浮かべて近づく。
「いいじゃないっすか!先輩、自分ばっか、合コン行ってさっぱり連れてってくれなかったじゃないですか!」
「あったりまえだろ。あのぽわん、とした胸がこう……」
どっと笑い声が上がり、そうだよなぁ、と大祐は内心頷く。
大祐は見かけただけだが、以前の担当で広報室の中ではスタイルの良さで人気があった担当らしい。
しょうがないなぁと思いながら部屋の中に入ろうとした瞬間、大祐の足が止まる。
「今はやっぱり、帝都だろう。空井一尉がうらやましいよなぁ。華奢だけどにこっとされたらたまらん!」
「そう!こう、固そうな服が多いけど、たまに、おおっ!っていうかわいい恰好してくるのもいいよな!」
「あれは空井一尉の」
ぴた。
「帝都テレビの稲葉さんがどうかした?」
にっこりと笑みを浮かべた大祐がぽん、と隊員の肩に手を置いた。それまで一緒になって盛り上がっていた隊員たちはそそくさと自分の席に戻っていく。
「あ、あの……」
「何?」
「いや、決して、その、空井一尉の奥様がですね」
「うん。うちの奥さんがどうしたって?」
肩に置かれた手がじわじわと重さと締め付けを増していくようで、恐ろしくて振り返るに振り返れない。
顔は笑っているのにその目だけは少しも笑っていない大祐の腕を苦笑いを浮かべた比嘉が掴んだ。
「空井一尉。怖いです、顔が」
「はい?」
「はいはい。すごまない、すごまない。稲葉さんが魅力的だということは事実ですから、そこは心を広く持ちましょう。大丈夫です。ここではいくら惚気ても腕力で暴れたりは限度があります」
「比嘉さんっ!」
松島時代をからかうような比嘉の一言に大祐の手が離れた。その隙に逃げ出した隊員をよそにして今度は大祐と比嘉のやり取りが始まる。だが、比嘉のあしらいに勝てるはずもない。
その間に、大祐と比嘉の携帯がほぼ、同時になる。
一時休戦と携帯を見た比嘉と空井が同時に反応した。
「おや」
「藤枝さん……」
「ちょうどいいですね。二人とも問題なしと答えておきましょう。じゃあ、続きは夜に」
有無を言わさずさっさと返信を返してにっこり笑った比嘉にぐっと言葉に詰まった大祐は携帯を握りしめて足早に廊下に消えた。