黙ってみてられませんなぁ。女にはこういう冗談っぽいのだけでも気になっちゃうよねぇ
BGM:Erik Satie Je te veux
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診療所の周りではあまり聞かれなかった噂話は、気がつけばそこかしこで聞かれるようになっていた。もちろん、悪意のあるものではない。
皆がどこかで気が緩んでいるのもあった。それを組長達は少なくとも感じているだけに、稽古は厳しくなる。
そして厳しい稽古になれば、終わったあとには辛さをぼやくことになる。
「ぐわー……、堪えるぜ」
「別に忙しくないのにこんなにきつい稽古はないよなぁ」
「これで原田先生は家に帰れば奥さんとっ!いいよなぁ〜」
「何言ってんだよ。馴染みの妓の所にでも行けばいいじゃねえか」
「んなこといったって、金ねえよぅ〜」
「沖田先生なんか今日は夜番だろ?」
「神谷なんかどんなに遅くなっても沖田先生を待ってるんだよなぁ。いいよなぁ〜俺達とは違って」
遠くで聞こえる話し声に、セイはぎゅっと胸のあたりで拳を握りしめた。
―― 大丈夫。あのくらい、清三郎だったときだって当たり前だったじゃない。
今は幸せすぎて。だからきっとこんな些細なことも気にしてしまうだけだ。
セイは、心の中に刺さった抜けない棘をぎゅっと握った手の中で感じる。
―― 痛い
「神谷さん」
はっと振りかえると総司が立っている。びっくりした顔で固まってしまったセイを、不思議そうな顔で総司が見た。
「どうかしました?」
「いいえ!いいえ、何でもないんです」
慌てて下を向いたセイを総司が抱き締めようとした。その手を反射的にセイは振り払った。
「あっ、あの、ごめんなさい。その、診療所だから」
セイに気づかれないように、ふう、とため息をついた総司は、笑顔を貼り付けてセイの肩に手を置いた。
「今日は、夜番なんですが、私は土方さんに呼ばれているので、副長室で夕餉をとろうかと思うんですが」
「あ、ああ。ええ、はい。じゃあ、私はこちらで頂きますので」
「分かりました」
ほっとしたのか、ようやくセイが顔を上げた。
振り払われた手が切なくて、しかもそれでほっとした顔をされたのがなおさら痛い。総司はそのままセイから離れて副長室に向かった。
幹部棟へ向かうとすでに副長室には二人分の膳が整えられていた。
「土方さん」
「おう、入れ」
「どうしました?珍しいですね」
総司が膳の前につくと、土方がその向いについた。渋い顔をした土方は、さてどうしたものかと思っていた。
「あー……」
「はい?」
「いや、なんでもねぇ……」
結局、土方も話を切り出せないまま、夕餉に向かった。
診療所の小部屋で一人、セイは夕餉を突いていた。セイの場合は、本当に突いている、が正しい。
「はあ……」
夕餉は、箸が行儀悪く、彷徨うばかりでさっぱり減らない。
―― どうしたらいいんだろう。
結局、ぼーっとしたまま、ほとんど食べられずにセイは膳を戻した。賄いには申し訳なくて詫びたが、かえって気を遣われてしまった。
「いいんですよ。神谷さんもお疲れなんでしょう。なにか、握り飯でもお作りしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
そういうと、セイは再び小部屋に戻った。総司が夜番だとしても、セイは何もなければ夜は空き時間である。
外を回って隊士が一人やってきた。
「神谷さん、いらっしゃいますか?」
「はいっ、います」
「あの、土方副長がもし神谷さんが手が空いているようだったら来て欲しいとおっしゃってますが」
「はい、行きます」
一応、夜のことなので気を遣ったのか、障子は開けずに隊士は伝えるだけ伝えると戻って行った。セイは、着物を整え直して、土方の元へ向かった。
「副長、お呼びでしょうか?」
「神谷か」
セイを招き入れると、土方はおもむろに盆を差し出した。その上には、抹茶と、茶筅と、茶碗が二つ乗っている。
「お前、たてられるか?」
「え、ええ。きちんと習ったわけではないのですが、このようなものなら我流でよろしければ」
「じゃあ、頼む。湯は沸いてる」
火鉢の上には鉄瓶が乗っている。セイは、不思議に思ったものの、土方がいきなりおかしなことを言うことはよくあることなので、セイは、抹茶を手にして茶をたてはじめた。
土方の分の茶をたてると、土方の前に茶をだした。
「形ばかりの真似事で失礼いたします」
「いや。お前も飲め」
茶を飲みながら土方は、珍しくも綺麗な干菓子を差し出した。
「茶菓子にいいだろう」
「あ、ありがとうございます……あのう……」
「なんだ」
―― 副長ってば、どうしちゃったんだろう。
お茶を飲むと、土方がようやく口を開いた。
「あー……なんだ。あれだ、お前……その」
「はい?」
「……あんまり細かいことを、気にするな」
ぱっと口元を押さえると、かあっとセイが赤くなった。
「あっ、の、副長っ、何で」
「いや、その……総司は野暮天だから、あいつにゃお前が気にするようなことはわかんねぇだろ。もうちょっと気を遣ってやりゃあ随分と違うんだろうが……」
ぱたぱたっとセイの手の甲に涙が零れた。土方が、困ったように手を伸ばしかけて、その手を引っ込めた。昔であれば違うところだが、今は人妻になったセイだけに不用意に慰めることもできない。
「ったく、泣き虫は相変わらずかよ」
「そ、そんなにすぐに変われませんっ」
ぽろぽろと泣き続けるセイに、仕方ないと思ったのか、土方は目の前の盆を退けた。膝を進めるとセイの顔を自分の胸元に引き寄せる。
「俺は女には甘いんだよ。野郎はどうでもいいがな。だからお前が泣くのはどうにもな」
「ふ、副長は普段自分が女子を泣かせてらっしゃるんじゃないですか」
「……馬鹿だな、お前。こんな時くらい余計なことを言わずに素直に慰められとけ」
セイは、総司とは違う、土方の優しさに驚きながら泣き続けた。このところ、気にすまいとすればするほど、あちこちで交わされる話が気になって耳を傾 けてしまい、さらに心を痛める日々が続いていたのだ。そして、それを総司には気取られまいとしていただけに、昼間の近藤といい、土方といい、大人の二人が 気づいてくれたことにほっとしていた。
「私……が、我儘になってるんです。己の未熟を棚にあげて勝手に思っているだけなので……」
「そうだな。我儘かどうかはさておき、未熟なのは仕方ないだろう。これからどうするかを考えりゃいい」
「だって……! どうしていいのかわからないんです!! 私などを幹部待遇にしていただいてありがたいのですが、それで他の先生方のように命じることができるかといえば、お願いはできてもそんなことできません。 それに私が勝手なことをすれば、沖田先生の妻だってことだけで出しゃばっているようで、そんなことできません。できることはやってるつもりなんです。仕事 だって……」
だから、医師としての手が空いていれば、南部から医学書を借り受けて勉強もするし、近藤や土方の小姓の真似ごともする。かと思えば、家に帰っても総司のためにできることはすべてやっているし、総司がどうであれ、屯所内で甘えるようなこともない。
セイは、セイなりにできることをやってきたつもりだったのだ。土方の肩口で泣き顔を上げたセイは、ようやく本音を口に出した。
「もう、どうしたらいいのかわからないんです……」
そんな、悪気のない揶揄など放っておけというのは簡単だ。実際、土方は放っておけばいいとも思っている。忙しくなれば自然と止む話だ。
だが、セイはどこまでいっても、自分のために総司まで揶揄されることをよしとしないのだ。それはたとえ、総司本人が気にしないと言っても変わらないだろう。
しかも揶揄される原因を作っている節もある総司をどうしてそこまで、と思う。
土方はぐいっと、泣きじゃくるセイを再び胸元に押し付けた。
「いいから眠れ。お前は考えすぎてんだ。今夜は診療所じゃなくて幹部棟にいろ。一人でゆっくりと眠るんだ」
総司がするのと同じく、あやす様にセイの背中を優しく叩いてやると、しばらくして、肩によりかかる重さが変わって、セイが泣きながら眠りに落ちた。
– 続く –