「今朝の降水確率は40%です。お出かけの方は折り畳みをお持ち……」
テレビのニュースを聞きながら支度をしていた藤枝は、置いてあった折りたたみにちらりと視線を向けた。
普段は、用心深い藤枝だったが、この日は外を見た時には快晴でこれなら降らないだろう。
そう思って家を出た。ところが、電車に乗って局へ向かっている間に、気が付けば日が差しているのに雨が降りはじめる。
少しだけ早足になった藤枝よりも早く、雨足は強くなり始めた。
それでもハンカチでまだ濡れた自分と鞄を押さえて改札を抜ける。同じように濡れた人々が多く、駅が近いだけに、皆、折り畳みを持っていてもわざわざ出さなくてもと思ったからだ。
雨の匂いがホームにも溢れる中で、滑り込んできた電車になだれるように乗り込むと、走り出した電車の窓の外に思わず呟きが漏れる。
「うわっ……マジかよ」
同じように電車の窓越しに降り出した雨を見て車内はざわつき始める。藤枝は窓の外を見て小さく舌打ちした。駅から局まではそれなりに距離があるのだ。
―― こんなことならもってくりゃよかったな……
自分に文句を言いながら、少しでもつくまでにはこのお天気雨が収まってくれることを願っていたが、思い通りにならないのが転機と言うものらしい。
ホームから改札を抜けて、局に一番近い出口から出たところで思わず足が止まる。
狭い屋根の下で次々と、皆空を見上げていたからだ。待っていても時間が過ぎるばかりで止みそうにない雨に腹を決めた藤枝は、鞄を犠牲にして、濡れながら局へと駆け込んだ。
「くそ、なんだよ……。こんなに降るなんて……」
鞄を下ろすと水が滴る。服もかなり濡れてしまっていたが替えのスーツがロッカーに置いてあった。エレベータで上がると、同じ時間に雨に降られた何人かは同じように濡れそぼっていた。
水滴の跡を残しながら自分のデスクに向かう。
「あれ、藤枝。おはよ。外、雨?」
「おう。結構降ってきたぞ」
「本当?天気予報あたらないねぇ」
周りにいた何人かとそんな声を交わしながら、アナウンサーのフロアでとりあえず鞄を置くと、ロッカーに直行する。
放送用のスーツは常に2着置いてあって、そのほかに衣装を借りることもできる。今日は藤枝の登板時間は午後の短いニュースだけだからと、少しシャレのきいた方に着替えると、フロアにもどった。
「あっれ、藤枝ちゃん。今日、1本、ナレ頼みに来たのに、何よ。デート?」
カラーのワイシャツを指差して手にしていた書類を丸めたスタッフが近づいてくる。へらりとした笑顔で受けた藤枝に肩をすくめて見せた。
「えぇ?違いますよ。さっきの雨に降られちゃって」
「へぇ……」
濡れた髪を手で整えていた藤枝を頭の先からつま先までじろじろと眺めた後、またな、と言って肩をポンと一つ叩いたスタッフは藤枝から離れて違うアナウンサーのところへと歩いて行った。
「……ちぇ」
1本のおいしい仕事を逃したような気がして藤枝はむぅ、と口を尖らせた。
飲みに行くぞ、と仕事明けにリカを誘った。
「ったく、今日はついてねぇんだよ」
「しょーがないじゃないの。1回くらいそういうことだってあるわよ」
カウンターの上に二つのグラスがどん、どん、と2つ続いて置かれた。藤枝とリカのストレートグラスの中で泡と残ったビールが揺れる。
濡れた服は夜までには乾いたものの、結局その日の仕事はついてないことばかりで、ニュースの最中に2度も噛んでしまったり、打ち合わせを1本間違えて、会議に遅れたりとヤケ酒には十分だった。
隣りに座るリカは幸せいっぱいなので、ここぞとばかりにしたり顔で慰めてくる。
「ついてないってことないってば。たまたまそういうことがあっただけじゃないの」
「……お前、自分だけにやけた顔しやがって」
「ちゃんと、今日は、藤枝のヤケ酒に付き合うねって連絡しました。空井さんから、次は僕も付き合います、って言っておいてくださいって」
澄ました顔でそういうリカに、つまみで出てきたナッツを手にしながら藤枝は柄にもなく、盛大に舌打ちをする。
なんだかんだいって、リカと空井はうまくやっているらしい。
「けっ」
舌打ちした藤枝は、運ばれてきたおかわりのビールグラスに手を伸ばした。ぐいっと半分ほどビールをあける。
喉から腹に向かって、炭酸とアルコールが熱を持って流れていく。
ふーっと吐き出した藤枝は、隣のグラスがなかなかあいてないことに気づくと、さっさと飲めと促した。
「飲みが足りないんだよ」
「うっさいなー。飲んでるわよ」
「どうせ今日は飲んでくるって、空井君にも言ってるんだろ?」
勝手に次の酒をオーダーすると、カウンターの上に飲みかけのグラスが並ぶ。どうせそれほどリカは酒が強いわけではない。飲みかけのリカのグラスまで飲み始めた。
「ちょ、藤枝っ!あたしのまで飲んでるーっ」
「うるせーな。お前、飲めねぇじゃん」
「なーに言ってるの。飲むわよっ」
グラスの取り合いをしながら、食べるよりも飲むだけがどんどん進み、二人はしたたかに酔っ払い始めた。
「おー、いなばっ」
「なぁーにぃーよ。藤枝っ。ちょー、もうー」
グラスを倒しかけたリカはそれが藤枝が倒しかけたと思い込んで、フラフラの手でグラスを押さえた。
隣りで酔っぱらっている藤枝はそれでも頭を振って顔を上げる。カウンターの上を指先で叩いてマスターを呼ぶ。
「マースター。水!……と、お勘定」
「はい」
散々酔っぱらっていたからそろそろだろうと思っていたらしいマスターがすぐ二つの水のグラスと伝票を持ってきた。
「ふーじーえーだ!何やってんの。アタシも払うってばー」
「ぶぁーか、お前がおごりだって言ったんだろうが」
使い慣れたカードをさしだして会計を済ませると、背の高い椅子からふらつきながら立ち上がる。
リカの腕を掴むと、リカのことも何とか立たせた。鞄を掴んだリカを連れて、階段を上がるとまともに歩くのもやっとのリカを連れて歩き出す。
「歩くの面倒くさーい」
「ふざ、けんな、ほらお前、携帯出せよ。空井君に電話しちゃる」
酔っ払いのリカを家まで連れて行くのは、もう藤枝の仕事ではない。途中までは送ってやるが、あとはきっと今リカの部屋で帰りを待っているはずの男の役目である。
「もっしもーし。藤枝でーす。こんばんはー」
『あっ!藤枝さん。お疲れ様です。こんばんは』
電話の向こうでリカの声ではない声に驚いたはずの男は、律儀に挨拶をしてくる。きっと電話の向こうでもきれいに体を傾けているところだろう。
「えーっとぉ。おたくの嫁が酔っぱらってまして!」
なぁにいぃ?!あたしだけじゃないっしょー。
車の音もうるさいのに、酔っ払いの声は大概大きい。
電話越しに傍で騒ぐリカの声は聞こえていたらしい。
『リカさん、随分、酔っぱらってるみたいですね』
「そー。そーなの。この女、めんどくせぇったら。これから、タクシー捕まえて、放り込むんで、近くで拾ってください」
『ありがとうございます。じゃあ、駅の近くを指示してもらえますか』
そういって、リカの家の最寄駅近くで、目印になる場所を指定してくる。確かに、藤枝もリカを送っていくときには目標にするからはいはーい、と気軽に応じる。
「んじゃー、お迎えよろしくっ」
『わざわざありがとうございます。今度またお礼させてください』
「いーのいーの。空井君も大変だね。んじゃ、おやすみー」
酔っ払い相手にも丁寧に、はい、失礼します、という電話を切って、すぐそばでぶつぶつと文句を並べているリカを担ぐようにしてタクシーを捕まえに向かう。
「ふーじえだっ」
「なんだよっ」
「あーた、もったいないっての!ちょっとくらいで気にしてる暇なんかないでしょ!!」
「もう、それはいいつってんだろ!あんまりトラになると旦那に愛想つかされんぞ!」
ぴた。
―― やれやれ、やっと大人しく……
なったとおもっていると、ちょうどランプを付けたタクシーを止めて、リカを乗せようとして振り返った藤枝は、一気に酔いが醒めた気がした。
「なっ……!なに!なんなの!」
驚くのもそのはずで、急に大人しくなったリカは口をへの字にしたまま盛大に泣きだしていた。
「空井さん……。嫌われちゃうかなぁ……」
「!!あほか!ほら、さっさと乗れ!運転手さん!人形町の駅の方に向かってください!近くに目印があるんで、その傍にこいつの引き取り手が待ってますから!」
そういって、強引に押し込んだ藤枝は、運転手には酔っ払いなので放っておいて場所まで行けば、身内が待っていると安心させてようやくドアが閉まった。
「じゃーな!寝るんじゃねーぞ!」
走り去るタクシーを見送った後、どっと疲れが出てきて、ぐるっと首を回した藤枝は面倒になって、空車を見つけるとだるく手を上げた。
飲みませんか、の誘いに2つ返事で答えたのは失敗だったなと思う。
りん串でもなく、馴染みのバーでもなく。
個室のある和風居酒屋の奥まった小さな部屋で目の前に座った夫婦はこれでもかといちゃついていた。
正しく言えば、本人たちにいちゃついている自覚はないのかもしれない。ただ、お目付け役というより、保護者が一緒にいるからと気安く飲み始めたリカの酔いはいつもよりも早いと言うだけのことだ。
けらけらと機嫌よく飲んでいるリカは、大祐のビールジョッキのふちに自分のチューハイのレモンをひっかけようとしてひっかけきれずにつるっとそのままジョッキの中にダイブさせている。
「ちょ、リカさん!ほら悪戯しない!」
「えっへっへ。だってぇ、……今日は飲んでもいいって大祐さん言ったじゃない」
「言ったけど、あっ!こら、やきとりにそんなに唐辛子かけない!」
初めは揃ってビールを飲んでいたのだが、駆けつけ何とかで、それぞれがジョッキをあけると二杯目、三杯目あたりからチューハイやカクテルや、ロックなど好き好きに飲み始めた。
目の前にあれば食べるのだろうが、三人とも飲みだすとあまり積極的には食べなくなる。かといって、全く食べないのではなく、少しずつつまみながらなので、まだましだったかもしれない。
それでも、男二人よりはだいぶ飲むペースは遅かったかもしれない。
一緒にいるのが大祐と藤枝の二人で、リカのスイッチは完全にオフになっていた。くすくすと甘えてかかるリカの手を次々と押さえながらうまくいなしているところを見ていると、夫婦になってだいぶこなれてきたらしい。
「飲むと、コイツ、たち悪くないですか?この前も大変だったでしょう?」
お通しの枝豆を指先で振り回しながらリカを指すと、むっとした顔ですぐに言い返された。
悪気があったわけでもなく、ちょっとからかうつもりでそんなことを口にしたのが悪かったのかもしれない。
他愛もなく、この顔ぶれで飲むなら、肴になるのはもちろんリカになるのも当然なのだ。
「たち悪いってなによ」
「悪いだろー。酔っぱらうとクダをまくわ、泣き上戸になるわ。俺がお前をどれだけ面倒見たと思ってるの」
目の前の旦那と一緒になる前から、藤枝がリカの面倒を見てきた歴史は長いのだ。
その苦労を聞いてほしいものだと軽い気持ちであんなことやこんなことがあったと言い出すと、一つ一つ、リカが反論してくる。
「ほんと、こいつ、普段はがちがちに固くて融通がきかないじゃないですか。その分、酔うと、気が抜けるんだか、色々しゃべりだすんですよ」
藤枝のフリに、笑いながら大祐がリカを振り返る。その瞬間、話を振った方なのに若干、イラっとするのは絶対に気のせいなのだ。
「そうだったの?」
「そんなことないから!」
「いや、結構あるんじゃ……」
からかいにのっかった大祐を違うから!と拗ねたリカがぶつ真似をして、ふざけながらそれを抱きとめる大祐もこれが素だからこそたちがわるいんだよなぁと、藤枝は白々とした視線を向ける。
「そういや、稲葉」
「んー?」
仕事では旧姓のままで通しているリカは、空になったグラスを大祐に取り上げられて、次の酒を頼もうとして大祐に軽いものを進められているところだった。
―― 幸せそうでようございました……ってね……
「お前、この前肩のあいた服着てただろ?」
「え?そう……だっけ?」
かなり酔っぱらっているから、話が頭の中に入っていくのにだいぶ時差がある。
んー、と思い出そうとしているリカからメニューを取り上げた藤枝は、しれっと憂さを晴らすような一言を投げ込んだ。
「キスマーク、結構話題になってた」
「ばっ!!ちょっと!!なんで教えてくれなかったの!!」
すぐそばにあったおしぼりを藤枝に投げつけてきたリカに、片手でよけながら後から教えただろ、とあっさりかわす。
「教えてないじゃない!」
「教えたよ。ともみんはつかまらなかったから、珠輝ちゃんに頼んで、肩にショールでもスカーフでも巻かせなさいって言って、ちゃんとフォローもしてます」
「だったらその時に言いなさいよ!」
いーっと顔をしかめたリカにひらひらと手を振って、次の酒をオーダーする。ついでにリカと大祐もおかわりを頼み、膨れてしまったリカを散々大祐が甘やかしているのをみて、溜飲が下がったのも一瞬だったなと思う。
目の前で散々イチャつかれた挙句、稲葉が手洗いに立った隙に運ばれてきた酒を大祐が勧めてきた。
「これ飲みましょう。藤枝さん」
頼んでから来るまでが長いから二つ頼んだのかと思っていたが、大きな氷が入ったロックが2つ。
「いいんすか?」
「ええ。一緒に」
そういわれて、同じようにグラスを手にして口にした瞬間、思い切りむせた目の前で、大祐はあっさり一気飲みした。口の中に火が入ったようで、まだ胸から食道のあたりが熱い。
目を白黒させた藤枝に、笑顔の大祐の目だけが笑っていなかった。
「セクハラ禁止ですよ。藤枝さん。次はこんな程度じゃすませませんから」
―― やられた……
耐え切れず、店員を呼んで水を頼んだ藤枝が諸手を上げて、降参だと示したところに戻ってきたと水を運んできた店員が一緒に顔を見せた。
「?何、酔ったの?」
「……ちげーよ」
「何、急に怒ってるの?」
大祐と藤枝の顔を交互に見比べたリカを放っておいて、藤枝はチューハイ用の大きなグラスの水を一息に飲んだ。
―― 怒ってねーよっ!!
—end