「ようこそ。俺の部屋に」
手を繋いで、藤枝のマンションに来た西村を玄関から部屋の中へと導いた。藤枝の部屋は、玄関からまっすぐに伸びた廊下を進んで、濃い茶色のドアを開けた先にあった。
ほとんど何もない部屋。
ガラスのテーブルと低いソファーだけでほとんど生活感のない部屋だった。
「座ってください。お茶はないけど、コーヒーならあるから」
部屋のなかにある生活感と言えば、ソファの一つに脱いだシャツが一枚放り出してあるのが唯一に見える。キッチンに入って、藤枝がコーヒーを入れている気配がする中で、所在無げにソファに腰を下ろした西村は、ジャケットだけを肩から落として傍に置いた。
「……あんまり、物を置かないんですね」
「え?ああ。向こうの部屋にはちょっと置いてあるんですけどね。こっちにあんまり物を置きたくないんだよね。人が来る機会があるとしたらこっちだから」
それでも人はほとんど入れないんだけど。
付け足す様にそう言って、こぽこぽとコーヒーメーカーが音をさせる間にすたすたと隣の部屋のドアを押しあけた。壁のスイッチを押したらしく、明かりがつく。
ドアの間に立った藤枝がポケットに手を入れて、首を傾げる。その距離感が今の二人なんだなぁと思いながらもう片方の手を差し出した。
見に来て。
無言でもその言葉が伝わってきて、視線を彷徨わせた後、躊躇いがちに立ち上がった西村のところに歩み寄った藤枝が、手を引いて隣の部屋の入り口まで連れて行く。
部屋の真ん中にベッドがあって、仕事用のバッグと、壁には帽子がいくつかかかっている。クローゼットが半分だけ開きかけた状態になっていて、スーツやシャツが並んでいるのが見えた。
こちらはリビングとは違って、プライベート感が漂う。
壁際には雑誌や仕事関係の資料なのか本が積み上げられていた。
「俺のプライベート。つまんないでしょ?」
「……そんなことないけど」
「つまんないよ。家に帰ってもほとんどすることないし。風呂入って、酒呑んで寝て、また仕事行って、みたいな」
「普通はそうなんじゃない?」
何気ない空気の間に繋いだ指先が会話する。引きそうになる西村を藤枝の指が絡めて、引き留めた。
子供でもなく、境界線の空気を感じるからここで離れた方がいいと、往生際の悪い理性が頭の片隅で掠めて、西村はそのままそこからソファまで戻りかけた足を止める。
「……何もしないから。信じないかもしれないけど、ほら」
指先だけを引き寄せて、藤枝の胸元に引き寄せられた手に、少し早い鼓動を感じた。
「これでも緊張してんの。連れてきておいていうのもなんだけど、……ね」
ふざけた空気を纏っていても、自分の内側を見せるのは、どうしても勇気がいる。いつも、内側に踏み込もうとする相手は遠ざけてきた。面倒が嫌いで、そのくらいなら一人の方がいい。
二人でいても、寄り添うことがない方が、余計一人を感じるから、そのくらいなら一人の方がいい。
そう思っていたから。
「ただ、話を……。たくさん話が出来たらいいだけだから」
「……なんで部屋に物を置くのが嫌いなの?」
承諾の代わりに返ってきた質問は、話をしたい、の返事な気がして、手を繋いだまま、藤枝はソファまで戻る。キッチンに戻りかけて、手を離そうとしたのを逆に引かれて、振り返った。
「入れましょうか?」
「あ……、うん」
コーヒーの香りがするキッチンに、藤枝を追い越して西村が向かった。コーヒーメーカーに落ちたコーヒーを少し眺めてから、西村は物の少ないキッチンの中に首を回した。
「いつも、家で飲むときはブラック?」
「んー、その時によるかな。でも今はミルクも何もないかも」
「ガムシロか、お砂糖はある?」
頭の上の棚を開いて、スティックシュガーを取り出した藤枝の手から引き抜いた西村は、傍に置いてあったミネラルウォーターのペットボトルに手を伸ばした。
「これ、借りていい?」
「?……いいけど」
藤枝が用意したカップにコーヒーを注いだ後、わざと残したコーヒーをゆすいだペットボトルにいきなり注ぎ始めたのを見て、目を丸くしてしまう。
驚いて、眺めていると、そこにぱきっと二つに折ったスティックシュガーを入れる。いくらでもない量ではあるが、熱いコーヒーじゃペットボトルが溶けるんじゃないかと思ってみていると、きゅっと蓋を閉めた後に、ちらりと視線を向けた目が笑っていた。
締めた蓋のあたりを持って、軽やかに振ったペットボトルの中でコーヒーはあっという間に泡になる。
パシャパシャと音がしなくなったペットボトルを斜めにして満足そうに笑うと、蓋をあけてカップに泡を注いだ。
「なんちゃってエスプレッソもどき」
「もどき……って。……全然もどきじゃないじゃん!」
「だーかーら、もどき。なんちゃって」
呆れた顔で呟いた藤枝に、甘いコーヒーの泡が乗ったコーヒーを渡した西村が、笑いながらキッチンを出ていく。
つられたように、おかしくなって、笑いながらコーヒーを口にした藤枝は、予想を裏切る味に足を止めた。
ソファに戻った西村が、腰を下ろしてから振り返る。
「どう?」
「……やべぇ。うまいかも」
どうだ、と言わんばかりの笑顔はここしばらくの間に見た久しぶりの顔に見えて、照れくささにポケットに手を入れた藤枝は、西村の座るソファの一人掛けに腰を下ろした。
「それで、なんで物を置かないの?」
「ああ。ここ?ここは、なんだろうな。生活してる場所っぽくしたくなかったんだよね。ほら、なんかさ、生活感が出てくると、それって表にもでるじゃん。そういうのが嫌で」
「なるほど。ほとんど家では過ごさないの?」
「そんなことはないよ。もちろん、家に帰ってくるし、一人で本を読むこともあればドラマだって見る。あ、俺、自分のとこのだからだけど?事件記者走る、とか好きだよ」
もちろんわかってると思うけど、と眉をあげて見せた藤枝に西村は小さく吹き出した。