東京駅に着いた時には、まるで違う国にでもきたのかと、大げさに言えばそのくらいの違和感があった。
どれくらいぶりだろう。
実は、ひっそりと、荷物や支払いや、そんなこんなで、何度かは東京に戻ってきていた。
休めと強制的にとらされる休みを使って、日帰りだったり、夕方に来て翌朝帰ることもあった。
―― だから、本当なら、連絡しようと思えばいくらでもできたんだ
ただ、連絡するのが少しずつ、躊躇いが生まれて、怖くなって、送られてくるメールを見るだけで自分だけが癒されて、それが心苦しくて。
何度も決めるまでには迷い、松島でも何度も話し合った。
それでも。
―― 稲葉さん。それでも僕は……
きっと、あの日松島にいなかったらこんな決断はしなかったかもしれない。
例え、派遣されたとしても、違う道を考えたかもしれない。
―― でも、あの日の僕はあそこにいたんです。あれを見てしまったんです
見てしまい、時間の流れが変わってしまった場所に身を置いてしまった。
だから、自分が本来いるはずだった、空幕に行ってきた。
異動願いが受理されたからだ。
自分の机を片付けて、松島への発送手続きをして、後は住んでいた場所を引き払うために来た。
机の上が真っ新になって、振り返った時、見慣れた顔は一つも顔を上げていなかった。
「お世話になりました」
柚木の席は、空井が部屋に着てすぐに空席になっている。槙はちらりと立ち上がった時の柚木を見たが、何も言わなかった。
『あんた、馬鹿だよ!わかるよ、わかってるよ。あたしたちはそういう、今はさ。絶対、動かずにはいられないてわかってるよ!でも、稲葉はどうなんの?せっかく、もう一度会えるようになったんじゃないの?!稲葉のこと、泣かせないでよ!』
空井が異動願いを出したときに、柚木は全力で殴り掛かった。ようやくあえて、一緒にブルーをみて、東京に戻ってから二人がプライベートで何度か会っていることも聞いていた。
これから、二人は始まるのだと、広報室の誰もが思っていた。
お蔵入りになった密着取材が放送できることになったと、リカから喜びにあふれたメールが柚木のもとにも届いていたのに。
黙って殴られたままの空井に、掴みかかった柚木を槇が止めに入った。
「やめとけ。空井が決めたことだろ」
「離せ!離せよっ!あたしは稲葉にっ!稲葉に……!」
「あんたが稲葉さんに頼まれたわけじゃないだろ。それに二人の間の話をあんたが割り込んでどうすんの」
「うるさい、うるさい!!」
床の上に視線を落として、抑え込まれた槇の腕から飛び出して、もう一発殴ろうとしていた柚木の足元に、ぱたぱたっと何かが落ちた。
「……っ!」
槇の手を振り切って、広報室から走り出て行った柚木を見送ってから、槙が空井の肩に手を置いた。
「悪かったな」
「……いえ。いいんです。柚木さんの言うことはもっともだと思いますから」
殴られた頬を押さえて、ほろ苦い笑みを浮かべた空井に、いつもなら食いつくはずの片山は何も言わなかった。まるでそこにいないかのように、ふるまって、パソコンのモニターを睨みつけている。
代わりに、比嘉が立ち上がった。
「僕は、空井二尉が決めたことですから。でも、……でも、ちゃんと、話をしたほうがいいと思うんです。僕も、僕らは……、こういう時に大事な人の傍にはいられない仕事ですけど」
珍しく堪えられないでいる比嘉に向かって、空井が頭を下げた。
頑張ります、と言って頭を下げる姿を目の前で何度見ただろうか。その姿に言葉が途切れる。
鷺坂が最後に二人を会わせて、あとを託していったのにこのまま二人を再び、離れ離れにしていいのだろうか。
止められないこともわかっているのに、今だけは、引き留めたい。
「比嘉さん。すみません……」
「わか……。いいえ、僕の方こそすみません」
ぐっと口の端を無理やり引き上げた比嘉が、くるりと向きを変えて、席に戻る。笑顔を張り付けたままの比嘉の目が真っ赤になっているのをみて、奥の席に座っていた石橋がガタン、と立ち上がったが、唇を噛みしめて椅子に沈む。
皆の気持ちが、ありがたくて、申し訳なくて、空井はもう一度頭を下げた。
「……じゃあ、そろそろ行きます」
「元気でな。体だけは気を付けて」
槇だけがいつもと変わらない口調で、空井を送り出す。新しい広報室の室長は、まだ忙殺される日々の中にいて、なかなか広報室にいることは少ないらしい。
挨拶は済ませてあったので、そのまま広報室に背を向けて歩き出す。
何度も、リカを送ってでたエレベータホール。
ふざけ合って、広報室の中で仕事中なのに、手で真似したヘリや戦闘機を飛ばしあったこと。
PVの出来に、皆で喜んだあの時間。
鳴りやまなかった苦情の電話。
そして、皆で見送った鷺坂の退官。
全てが、あの日を境にして、遠い過去に押し流されていく。
「……やっぱり、最後はちゃんと会って、話さなくちゃ駄目だな」
携帯を開いて、何度も読み返して、保護までかけたメールの相手に、予定を聞くメールを送った。エレベータが一階につくと、その人からの電話。
「もしもし」
『もしもし、あの……稲葉ですけど、今、大丈夫でしょうか』
「ええ。お久しぶりです。稲葉さん」
僕に、再び生きる力をくれた人。
生きる世界に、再び色を取り戻してくれた人。
どんなことも、すべてに意味があったのだと、自分に考える力をくれた人。
すうっと息を吸い込んだ空井は、夕暮れから濃紺に染まっていく空を見上げた。
「今夜、もしよかったらお時間ありませんか。こちらに来ているので、お話したいことがあります」
もちろんです、と勢い込んだ声に、くすっと笑ってしまう。きっと、たくさん心配してくれたんだろう。
とても優しい人だから。
―― だからこそ。自分のような男では彼女を苦しめることしかできない
時間と場所を決めて、電話を切ってからも刻々と染まっていく空から視線を戻せなかった。戻してしまったら、涙が零れてしまいそうだったからだ。
決めてきた胸の内には、辛さよりもありがとうという言葉しか思い浮かばない。
―― ありがとう。稲葉さん。あなたがいたから、今の僕があるんです
きっとどこにいても、彼女の幸せを願ってしまうだろう。
どんな時も、彼女の声を、笑顔を思い出せば、頑張れるだろう。
ぐいっと指先で目元をぬぐった空井は、鞄を握りしめて歩き出した。
―― next