いそいそと旅行届を出した空井に、にやっと渉外室長である山本は笑った。
「ほーーお、ほぉ。お前がここにきて初めてじゃないか?」
「そう、ですけど」
妙に歯切れ悪い言い方になるのは渉外室の全員が空井の出した旅行届に興味津々で聞き入っていたからだ。
さっさと承認印をくれればいいものだが、部内の全員に見える様に届を高々と掲げる。
「あ、あの、室長っ」
「さーて、どうするかな。ま、今週は何もないかもしれないが、急に取材のアテンドが入るかもしれんしなぁ~」
そうなれば当然休みはなくなる。休みはもちろん代休という形にはなるが、これまでも、溜まりにたまった代休をちびちび消化してきた空井だけに、代休らしい代休はとりづらかった。
山本がもったいぶってあれこれと絡んでいると、他の隊員の一人が助け舟を出してくれる。
「室長、あんまり空井を苛めてると、伝説の鷺坂元広報室長からクレームの電話が入りますよ」
「おっ!そりゃいかんな」
慌てて、引出からハンコを出した室長にどっと部屋の中は笑いに包まれる。
東京と東北の往復を繰り返している鷺坂の耳は未だに現役同様に鍛えられている。まして、あちこちの情報通の耳にでも入ったら確かに厄介だった。
なんとか承認をもらった空井は、我慢しようとしても緩んでくる口元をぐっと引き締めた。
金曜の夜に仕事が終わったら新幹線に飛び乗って、日曜の夜に帰る。
考えただけでも嬉しくて、嬉しくて仕方がない。
あの日、手をつないで基地の入口まで戻る間、妙に照れくさくて互いにほとんど話らしい話はしていない。
ただ、涙ぐんでいた空井をからかうようにリカが笑ったくらいだ。
「じゃあ」
「はい」
「今度は、メールしていいですか?」
もう連絡しないとかつて言っていた空井に、問いかける。今までの分、一つ一つ、確かめたくて。
まいったな、と頭に手をやった空井は、つないだ手を離しかねて、向き合うと頷いた。
「はい。もちろん、メールも電話もします。待ってます」
「はい」
頷いたリカがとびきりの笑顔をみせる。
もう一度、抱きしめたいと思ったが、さすがに正門の前だと思って踏みとどまった。
それから1週間がひどく長かった。
毎日メールと電話をしていても、実質自分たちは、これまで付き合っていたわけでもなくて。
“週末、そちらに行きます。金曜日の夜から日曜まで”
許可を取ったことをメールするとすぐに返事が返ってきた。
“待ってます。詳しい話はまたあとで”
素っ気ない、短いメールが仕事中だったことと、それでもどうしても一言返したくて送ってきたのがわかる。
夜になるのさえ待ちきれなかった。
「あのですね。金曜日の夜にそちらに行こうと思うん……だけど」
くくっと電話の向こうで笑う声がする。
「あの、今までの話し方、急に変えようとしなくても」
「……すいません。やっぱ、わかりますよね」
「それは、はい。だって、空井さん、もともとすごく丁寧に話してくれるから」
耳元で柔らかく笑う声がくすぐったい。
ひとしきり笑った後、それで、何時ごろにつくんですか?と問いかけられた。
「私、たぶん、10時とかそのくらいになっちゃうかもしれないんですけど」
「えっ、金曜日から会ってくれるんですか?」
「えっ、会いに来てくれるんじゃないんですか?」
電話の向こうとこちらで同じような問いかけがぶつかる。黙り込んでしまった電話の相手に、必死になって話した気がする。
なにせ、自分は土曜と日曜は基本的に休みだが、リカの場合は、そうでないこともある。民間の彼女の方がよほど残業や忙しいと思っていたからだ。
そんな彼女の土日の時間を少しでももらえるならと思っていたところだったのだと。
「あのね。空井さん」
「はいっ」
ふう、とため息が聞こえて、一生懸命何を言おうとしているのか考えている気配が伝わってくる。
「自分の大好きな人が会いに来てくれるのに、嬉しくない人はいません」
「……えっ、あっ」
電話の向こうで、リカがもう~とじたばたしていたことなど空井は知りはしない。
ただ、大好きな人、と言われたことに舞い上がってしまった。
「僕もっ、大好きな人に、会いたいです。少しでも長く……」
「……じゃあ、金曜日、待ってます。何時ころつくか、教えてください」
「はい。それで、泊まるところを探そうと思うんですけど、どの辺が」
いいんでしょう。
といいかけて、再び電話の向こうの気配に、今度は少しだけ早く言葉を切った。
「……狭いんですけど、嫌じゃなかったらうちではどうですか」
電話の向こうでどんな顔をしてるんだろう。そう思いながらも嬉しくて顔がぐずぐずに崩れるのと同時に、心拍数が一気に上がる。
「……ありがとう。お言葉に甘えます」
心臓が跳ね上がった気がして、声が裏返りそうになる。それは、大人なのだからと思いはしても、彼女がそんなことを考えて誘っているとは思えなかったが、それでもやっぱり期待をしてしまうのは男として仕方がない。
―― いいんですか
なんて聞き返して、やっぱりやめます、なんて言われたら立ち直れない。じゃあ、お邪魔させてもらうとしてどこか行きたいところがあったら、と話を切り替えた。
それでも頭の中は指示語ばかりが溢れていて、動揺したまま落ち着かなくて、ずっと電話している間、部屋の中を歩き回ってしまった。