金曜の夕方、時計を意識しないようにしていても、どうしても意識してしまって、どうしようもなかった。
時間と共に、鞄を掴んで部屋を飛び出すなど、ずっとなかったことだ。
車を飛ばして、官舎の自分の部屋に戻ると、急いで着替えて、まとめておいた荷物を掴んだ。矢本駅に急ぐと、ぎりぎりで代行バスに乗り込む。
息を整えて、時計を見ると予定通りの時間に、小さくよし、と呟いた。スムーズに乗り継いでいけないと、新幹線に間に合わなくなるのだ。
乗り換えの松島海岸駅に着くと、快速を待って仙台駅へ向かう。これで、ようやく乗れた新幹線が東京につくのは21時である。
たった2年前はこちらに住んでいて、今でも何度か出張で来ることさえあるのに、それでも駅に着くと何かが違って見えた。
着きました、と送ろうとした空井の携帯が鳴る。
「はい」
「着きました?」
「ええ。これから帝都テレビまで迎えに行きます」
「ちょっと待って」
少しだけ焦ったようなリカの声に、内心では、一緒だなと思う。妙にざわついていると思ったのは、自分が人ごみの中で電話をしながら改札を抜けたからだと思っていた。それが急に間近で声が聞こえた。
「稲葉さん?」
「だから、ちょっと待って!」
「えっ」
ぱしっと手を掴まれた空井が驚いて振り返ると、携帯を手にしたリカがそこにいた。東北新幹線の改札の一つから出てきたばかりの空井の手を掴んでいる。
「よかった。何号車かきいてなかったから、どっちの改札から出てくるのかわかんなくて」
「え、あ、迎えにきて、くれたの?」
「もちろん。全力で仕事、終わらせてきました!」
照れくさそうに笑うその顔がめちゃくちゃ可愛い。
互いにはにかんだ笑みを浮かべると、携帯を切って片手を差し出した。あの日のように、指を絡めてから行こう、と歩き出す。
いつの間にかこの早い人の流れをすっかりと忘れていて、気が付けばリカに引っ張られるように歩いてホームへ向かう。少し待って、もう少しゆっくり歩きたいとリカの手を引くと、前を歩いていたリカの歩調が少し緩んだ。
「今日は、朝から散々からかわれてきましたよ」
「そうなんですか?」
「うん。彼女に会いに行くってみんな知ってますから」
彼女、という言葉に、リカの口元がきゅっと真横に引かれた。嬉しさに崩れてしまいそうな顔をこらえたリカが黙ってうなずく。
「ひどいんですよ。初めは室長も、なかなかハンコを押してくれなくて。ほかの人が鷺坂室長の耳に入れますよって言ってくれてようやく」
ハンコを押すふりをする姿があの豪快な姿を思い出して、ついにリカが笑い出した。テンションが上がっているから、身振り手振りを加えて話せば話すほど、リカが笑う。
一駅で乗り換えて、地下鉄で二駅。出口から数分でリカの住むマンションにたどり着いた。
こっちです、といわれて、エレベータを上がると、コツコツと先を歩くリカの足音に、妙に緊張が走る。いい年した男が彼女の部屋に行くのに緊張するなんて少し情けない気がしたが、もうそれはどうしようもない。
がちゃ、と鍵を開けたリカがドアを開けた。
「どうぞ」
狭いとリカは言っていたが、場所を考えれば広めの1LDKに入ると思いながら中に入ると、部屋中にリカの香りが満ちていた。
玄関の下駄箱の上に鍵を置いたリカが後から入ってきて、両手を広げて見せた。
「ようこそ。私の部屋へ」
「お邪魔します。えと、いきなりですけど、ぎゅっとしていいですか」
「は?……きゃっ」
リカが鞄さえ手から離していないところを、両腕の中にギュッと抱きしめる。
「すごく、会いたかった!」
突然、抱きしめられたリカが驚いて固まった後、ふっと肩から力を抜く。空井の背に腕を回したリカが同じように空井の体を抱きしめる。
「私も、会いたかったです」
するっと今は安心したように、どちらからともなく解けた腕は少しだけ恥ずかしそうにまだ繋いでいて。
「ごめんなさい。散らかってて」
「全然。すごく女の人らしい可愛い部屋」
力が抜けるとするっとタメ口が空井の口からも飛び出す。へへっと笑ったリカが床に放り出された空井の荷物をソファの上に置いた。
「お腹すきましたよね?」
「あ、少しだけ、新幹線の中で。僕より稲葉さんの方がお腹すいてるんじゃないですか?」
それでも結局すぐにいつもの口調に戻ってしまう。話したいことがたくさんあって、そんな些末なことはさておき、たくさん、顔をみて、声を聞きたかった。
上着を脱いだリカが、空井にも手を差し出すと、ああ、とスーツのジャケットを脱ぐ。リカの服の隣に掛けられた上着についつい目が行ってしまった。