僕は空井大祐という。
航空自衛隊の自衛官である。
元パイロットという肩書は最近ではあまり名乗ることはない。むしろ、元空幕広報室の広報官というほうが多いかもしれない。
うん。それだけ俺にとって、広報室にいた時間が大きなものだったからなんだけど。
今は都内でテレビ局に勤めている奥さんの……。
もう一度言い直そう。結婚してからずっと別居婚だった奥さんと一緒に都内に住んでいる。
結婚するまでにもいろいろあって、恋人期間はほぼゼロで結婚して、一緒に暮らすまでにもいろいろあった。それは僕ららしいと言ってしまえばそれまでだけど。
そんな奥さんも今はお腹の中に僕らの子供がいて、本当ならもっと早く産休に入ることもできたのに、ぎりぎりまで働くんだと言ってきかなくて、ようやくもう来月には産まれるという今月に入って、やっと産休に入ってくれた。
毎朝、行ってらっしゃいと言って一緒に家を出るんじゃなく、見送られるのも、時には僕が迎えに行くときもあるくらいだったのに、今じゃ、玄関を開けたらおかえりと出迎えてくれる。
これは、もう、ものすごくくすぐったいことで、毎日が……。あ、いや、一緒に仕事に出かけることも、一緒の電車で帰ってくることも僕は嫌いじゃない。いや、どちらかというとそれが嬉しかったから、今も期間限定だって思ってるから浮かれてるだけなんだけど。
ああ。だいぶ支離滅裂になってきたな。
仕事では書類を書く時にもまずはポイント、そして詳細を書く。広報室でかなり鍛えられた。
だから今じゃ、プレゼン資料なんて……、相変わらずあの人たちには敵わないけれどそこそこはかけるようになったはずなのに、誰に見せるわけでもないこんな話を書き始めたらおかしくなった。
これがうちの奥さんだったら、ものすごく素敵にまとめるんだろうな。そもそも、彼女の仕事は……と、俺たちの話じゃない。
うちの奥さんが努力家で、ものすごく仕事に邁進する人だってことも今は横に置いておく。
うちの奥さんの職場には同期で、仕事上では恐らく僕よりも彼女を理解している人たちがいる。
その一人で、きっと、恐らくだけど、お互い口にはしない暗黙の了解の上で書くなら、彼女を好きだった人がいる。それが、藤枝さんだ。
アナウンサーで、うちの奥さんとは違う仕事のようだが、一つの番組を作るチームとしては同じらしい。
そんな彼のことを今日は話したいと思う。
理由はいろいろあって、今の藤枝さんはいい飲み友達だ。男同士の気の置けない話もするし、時にはうちの奥さんのことを離す時もある。そんな時は、ちょっと気まずい空気になることもあるけど、藤枝さんは大人ですごくスマートにかわす。
そして今、彼はずっと、傍で見ていても胸が苦しくなるような繊細な大人の恋をしている。
そんな彼から飲む時間が取れないかと連絡がきたのは先週のことだ。
「あ……。リカさん。藤枝さんが飲みたいって言ってるんだけど、行ってきていい?」
家に帰って、奥さんと産まれてくる子供が暮らすために楽な場所を探して、二人で引っ越した部屋は前に奥さんが一人で住んでいた部屋よりも広い。
玄関を入ったらまず廊下という、いわゆるファミリータイプのマンションによくある形らしい。
リビングでここぞとばかりに、貯めていた資料のスクラップに忙しい奥さんは手を止めずに言った。
「ずるいな。男同士で飲み会なんて」
軽い言葉には、槙さんほどじゃないにしても、奥さんを心配しすぎる僕への少なからず抗議が入っている。
なんでわかるかって?
そりゃあ、たくさん言われてきたからだ。
奥さんの妊娠がわかったときは、彼女はもうわかっていて、不安で一人押しつぶされそうなくらいになっていたころだ。
それを言うと、今でも眠くてそれどころじゃなかった、というが倒れたと連絡をもらった時は頭から血の気が引くかと思ったのだからそんな言い訳は通用しない。
仕事を続けたいという奥さんの気持ちはわかるし、僕もそんな姿を好きになったのだから、表面的には物わかりのいい夫のフリをしてみせたけど、内心ではもう家から一歩も出したくないくらいだったんだ。
だって、何があるかわからないって、俺たちは身に染みてわかっているから。
それができないなら、心配するくらいは当たり前だとどんなに喧嘩になっても僕も譲らなかったからだ。
「産まれたら、またそういう機会はあるよ」
「またそうやって……産まれたらとか、そういうことじゃないって言ってるのに」
「わかってるってば。それでいってきていい?」
不満げな奥さんにイエスと言ってもらうのはそんなに難しくない。
だって、これは出かけることが不満なわけじゃなくて、自分だけのけ者になること、つまり構ってほしいサインだからだ。
奥さんの後ろから足の間に抱えるように腰を下ろすと、その肩に顎をのせる。
「……ね、ダメ?」
びくっとわかりやすいくらい、肩のあたりで切りそろえられた髪が揺れた。
「ちょ……、びっくりするから!」
振り返らずに声を上げた奥さんが耳まで真っ赤になるのを見ると、すごく満足感を覚えるのは勘弁してほしい。これでも男なりにいろいろ我慢してるんだ。
耳たぶから食むように唇を寄せる。
「だって、リカさんがいいって言ってくれないといけないよ?」
聞き様によってはかなりヤバいセリフだよな、と思うけど、そんなシーンはかなりお預けだからこのくらいの妄想は許してもらう。
「い……、いいからっ!行って来ればいいじゃないですかっ。もうっ、そうやっていつも大祐さんは私のことからか」
ほんの少しだけ潤んだ目で睨みつけてきた顔を間近で見たら、それはロックオンしてって言われているようなもんだ。
噛みつくようにキスして、堪能させてもらった。