僕のほうが先に店につくことは割とある。アナウンサーの藤枝さんはやっぱり時間通りには終われない仕事の人だから、うちの奥さんと同じように、時々、遅れてくることもあった。
でも、今日は僕が店についていくらもたってない。
「お待たせ」
「早いですね」
「今日は俺が呼び出してるし」
出だしはいつもついつい敬語になってしまう。すぐに軽口につられてそれもなくなるのに、今日の藤枝さんはひどくぴりついているように見えた。
「何。どうしたの?」
珍しく僕のほうから砕けた言葉に変えた。片手をあげて店員にビールを頼む。
「いや……」
歯切れ悪く言葉を濁したな、と思ったら、よほど言いたくないのか、言いづらいのか、どっちかだな、と頭に浮かぶ。
「まあ、まずはお疲れ」
ジョッキを軽くぶつけて、強い炭酸の泡を呑み込んだ。
「……悪い」
奥歯を噛みしめるような呟きが聞こえて、一瞬、聞かなかったフリをしたほうがいいのかと思う。
どうすべきか。
一瞬の判断を間違えてはいけない。
「悪いね。藤枝さんらしくない」
「は……。まったくだ」
苦笑いと溜息を一緒に吐き出した藤枝さんからひりついた感覚が消えた。
「いや、うん。俺が悪かった。ちょうど来る前に電話してたからさ」
「電話?」
「ああ。その、彼女に」
それを早く言ってよ!
それでか。
何がどうしたのか、っていうことまではわからなくても、なんだか藤枝さんの不安がわかった気がした。
今の藤枝さんは、うちの奥さんも変わった、というくらい男前に磨きがかかってる。その理由は、本人だけが気づいてないだけで、むき出しの彼が真剣に彼女に向き合ってるからだろう。
「喧嘩でもした?」
「……いや。その逆をしようと思って、さ」
「逆?……え?」
カウンターの隣に座った藤枝さんの顔を見てたら、確かにこれは男でもぐらっと来るな。ちょっとだけはにかんで、伏せ目がちなな目元とか、どきっとするのは僕にそういう気があるわけじゃない。
そんな笑顔って想像つくかどうかわかんないけど。
「……だから、空井君に相談したかったんだよ。つっても、あんな派手なプロポーズした空井君だからどうしようかとは思ったけど」
「派手って……。ひっでぇなぁ。でも、まあ、藤枝さんなら別にこまんないんじゃ」
えっ、と思った時にはビールを一気に飲み干していく姿で思わず呆気にとられる。
片山さんのプロポーズだって演出したくらいの藤枝さんが、いくら自分のとはいえ、プロポーズに困るなんてあるんだろうか?
決して酒だって弱いわけじゃないのはわかっているけど、ジョッキを一気飲みするほどと思うと、さすがに驚く。
「困らないわけないでしょうが!」
どん、とカウンターに置かれたジョッキが音を立てる。ちらりと目を向けたマスターにもう一つ、とサインを送ると、小さく頷いてすぐにビールをもってきてくれた。
「なんで?そりゃ、なんていうか、勇気っていうか勢いとかそういうのはいると思うけど」
「……そうじゃない。そうじゃなくて……」
もう一杯きたビールを再び同じ勢いであおった藤枝さんは、その勢いに咳き込んだ。
おいおい、と思いながら水を頼んで落ち着くのを待つ。
「そうじゃないって?」
「……もう断られてるんだよ」
「ああ……。……ってえぇ?!」
もうしてるってこと?!
がたん、と驚いて立ち上がった僕のリアクションを鬱陶しそうな顔がじろりと睨んだ。
そんなこと言ったって、ついつい反応しちゃうんだから仕方ないじゃないか。
「悪い……。でも、もうしてるってどういうこと?」
「どうもこうもないよ。だからさ。もうしたんだよ。それでやんわり断られた」
それを聞いてしまうと何も言えなくなってしまうじゃないか。
断られたってどういうことだよ。
そんなにもわかりやすく困った顔をみせるなと、座りなおしてすぐに横っ腹を小突かれた。
「断られたって……」
「ふられたわけじゃないよ。ただ、……結婚は無理だってさ」
「藤枝さんはどうしたいの……」
聞かなくてもわかる。
わかるのに、聞くのは、覚悟をさせたいからだ。
男ならその気持ちは伝わる。
「諦められるわけない。彼女が断るのは、自分に引け目を感じてるからなんだ。そんなことは何にも関係ないのに、俺が表に出る仕事をしてるから、その足を引っ張りたくないっていう」
「それは……確かに関係ないっていうか、でも、うん。それはわからなくもない気がする」
僕も奥さんに一度はそんな風に言って、断ったことがあるなぁ。
そう思うと胸が痛くなる。彼女さんの気持ちもすごくよくわかる気がして、唇をかみしめた。
「彼女さんは、きっと藤枝さんのことがものすごく好きなんですよ。好きすぎるくらいで、だから、全然そんなことはないのに一緒に歩くことをためらっちゃうんじゃないかな」
「それはわかってるよ。わかってるからこうして相談してるんだよ」
そりゃわかるけど……。
相談する相手が僕じゃ……。
「今、相談する相手が俺じゃ役に立てないとか思っただろ」
「……うん」
「あのな。こんな話できる相手、ほかに誰がいる?片山さんにしたらそんなの気にすんなで終わるだろうし……」
「……それは、うん……」
否定しようにも否定する要素ないもんな。
頷くしかないけど、俺でいいのかっていう疑問はもうこの際脇に置くしかない。
座りなおして、腰を据えると隣の藤枝さんのほうへと向き直る。
「それで、藤枝さんはどうするの」
「どうしたらいんだか……」
「うん。そうだよね。でもさ、諦められないなら、藤枝さんの気持ちを精一杯伝えるのはどうかな。やっぱり、僕も……、俺も、リカが体当たりでぶつかってくれたからだし。絶対それは伝わると思うよ」
どうやってそれを伝えるんだという藤枝さんの話を聞きながら、この話は結果が出るまで誰にも話せないな、と思う。
だからこうしてついつい、リカのように文章にまとめるなんて柄にもないことをしてるわけだけど。
それから、いつも以上にピッチの早い藤枝さんが早々につぶれるまで飲んで、タクシーで送ることにした。