「空井さん!」
「はいっ」
つい反射的に振り返ってしまった。
サンダルで、少しだけ背が高くなった彼女さんが急いで追いかけてくる。
「すみません。ご自宅までどのくらいかわからないんですけど、失礼ながらお車代にしてください。わざわざお疲れのところありがとうございました。奥様にもよろしくお伝えください」
そういわれて、あっ、となった。そうだ。彼女さんはうちの奥さんを知ってるんだった。
だが、差し出された小さなポチ袋はさすがに受け取れない。
一度手を差し出して、受取った後に、向きを変えてもう一度差し出す。
「じゃあ、これを僕から。車代なんて気にしないでください。その代り、これは藤枝さんとあなたが、一緒に飲んで帰る時の足代にしてください。それで、その時は、どうか藤枝さんの話を聞いてあげてください」
「……なにか、言ってましたか」
あ。
うわぁ……。
すごいな。
うちの奥さんを見ていて、彼女はものすごく喜怒哀楽がわかりやすい人なんだけど、それでも、意地っ張りなのか、恥ずかしいのか、僕のことはあまりストレートに感情をみせてはくれないんだけど。
彼女の表情が、ふわぁっと変わって、見てるこっちの胸が締め付けられるような気がした。
「いや、藤枝さんは……。ほんの少しだけ」
黙っていても、きっとこの人にはわかってしまうだろうから。
たぶん、その答えを見越していたんだろうな。
彼女さんの笑顔は、きっと、藤枝さんが好きで、好きでたまらないっていう顔だった。
「稲葉さんの旦那さんは、お話に伺ってたみたいな方ですね」
え?何が?
その手に握り締めた小さなぽち袋を見ながら、彼女さんは首を傾げた。
「藤枝さんが飲みすぎたのは、そのせいですか?」
「あ……たぶん。そうだと思います。あの、色々理由はあると思うんです。でも、もし。もし、よかったら、藤枝さんの話を聞いてあげてください」
頷いた彼女さんは、どこか痛いような、泣きそうな顔をしていたけど、それでもその場で丁寧に頭を下げてくれた。
「遅い時間までありがとうございました」
「いえ。なんか、自分、余計なことを……。じゃあ、失礼します」
頭を下げて、歩き出す。振り返ったらきっとまだ見送ってくれているような気がしたけど、だからこそ振り返らなかった。
一階までおりて、ここからなら歩けなくもないかなと思いながら携帯をみる。先に寝てていいと電話しようと思って、通話を押すと、すぐに奥さんが出た。
「もしもし。リカさん?」
『お疲れ様。藤枝、大丈夫だった?』
「うん。今、彼女さんのところに送ってきた。結構酔っ払ってたから明日は大変じゃないかなぁ」
そうかあ、と呟いた奥さんは、じゃあ、気をつけてといってくれるかと思っていたら、思いがけない言葉が聞こえてきた。
『大祐さん。あのね、大祐さん、その辺から歩いて帰るからって言いそうだけど、待ってるからタクシー使って早く帰ってきて』
「……え。なんで?具合悪い?だったらすぐ僕なんか待たないで救急車でもよぼ」
『そうじゃなくて!具合は悪くないけど、大丈夫だけど、帰ってくるまで待ってたいの』
あ、そういうこと。
なんだ。
……なんだ?
きっと酒を飲んでいたからかもしれないけど、耳に聞こえたことが頭に入ってくるのにすごく時間がかかった。
「えぇっ!?」
『うっわ……。そんなにおどろくとこ?』
「え、だって、今、あの」
『だって!私、今まで仕事があったりして、大祐さんが遅いときに待っていられなかったりしたんだもの!』
そうだよ。彼女も、うちの奥さんもちっともわかってないけど、こんなとき、僕も、藤枝さんもきっと片山さんも、大好きだって思うんだ。
たったこんなことだけど、驚いて、それでものすごく、思う。今すぐ、抱きしめたいって。
「わかった。これから急いで帰るよ」
『ありがと。待ってる』
うわぁ。かわいすぎだってば。
じゃあ、っていって電話は切ったけど。
きっと、藤枝さんはうまく行くような気がする。
でも、藤枝さんからオッケーが出るまでは奥さんにも話しちゃいけない気がするんだよなぁ。
だから、この感じをどうにかして残しておきたいから、帰るまでに、奥さんのように書き出してみたいと思う。
絶対に、うちの奥さんには見せられない、いや、門外不出だけど、でもたまにはいいと思うんだ。うん。
少しだけうちの奥さんの仕事の真似だけど、人の恋話なんて、男同士が多い職場じゃ下ネタにしかならないしな。
それはそれでいいんだけど。あ、いやこういうのはまずいな。今までせっかくクリーンな感じで書いてるのに。
うちの奥さんのことも、いつか書いてみたい気がしてきたけど、それはまた今度、機会があったらってことで。
—END