ブーケとブートニア10

リカが怪我をしたのは火曜で、水曜はさすがに言われたとおり休みを取った。
というより、正直なところ、痛みで起き上がれなかったのだ。

痛みは頭よりも腕の方がひどかった。とてもではないが右側を下にして眠ることなどできないくらい痛む。
骨は折れていなかったが、そういえばどうしようもなく痛んだらと痛み止めを出されていたのはこういうことかと、リカはたまらなくなってからベッドを這い出した。

頭の中は痛い、しかなくて、冷蔵庫から水をとってくると、何も食べていないのに痛み止めを飲み下す。
普通でも、こういう薬が効いてくるのは30分程度はかかる。
タオルケットを持ってくると、ソファに丸くなった。

熱いと思うのは痛みのせいだということにして、何とか薬が効いてくるまでの時間をやり過ごす。
その間に、携帯を見ると、いつものDMの間に空井からメールが着ていた。

『おはよう。今日はこちらは雨です。随分蒸し暑いからネクタイなし。ぶつけたところはどう?痛むんじゃない?』

まるで見ていたようなメールだと思いながら、左手でメールを打ち始めた。

『おはよう。今日はちょっと寝坊しちゃいました。湿布したし痛み止めも飲んだから大丈夫』

打ち終わってから、自分自身でああ、まずい、と思う。
痛み止め、のところを消して、代わりにお仕事お疲れ様、と追加して送信した。

額の傷は、子供が転んだ膝小僧のような有様だったが、血が止まってしまえばなんとか化粧で誤魔化しができそうだった。

木曜になって多少の無理をおして仕事に出たリカを阿久津は何も言わなかったが、珠輝はひどく辛そうな顔をした。

あの時、リカが自分のことを先に逃がしてくれたこともわかっているからだ。

「稲葉さん……」
「珠輝、心配しすぎだって。もう全然平気だから」

いくら言ってもこの人は聞いてくれない。
そう思うと珠輝は悲しくなってくる。ガツガツだったリカがどんどん変わっていって、そのリカのおかげで自分も変わった。

以前は仕事をするのもお金のため、何となくやっていればそれでよかった。
だが、今は仕事が楽しい。腹を立てることもなかった珠輝が今では、いいものを作るためには怒りもするし、人とぶつかることもある。

それでも、そんな珠輝をいまではリカが止めてくれるようになっていた。

フロアを出た珠輝は、悔しさのあまり大股でフレアのスカートをなびかせながらアナウンス部に向かった。

「藤枝さん!」
「お?」

珠輝が勇ましく現れたのを見て、くっとあがった眉がすぐに皺を刻んだ。

「まさか……」
「そのまさかです!腕だって痛そうにしてて鞄も持てないんですよ?!絶対、筋は痛めてるからしばらく大事にするようにってお医者さんにも言われてたのになんで仕事しにきちゃうかな!?」

ちっと舌打ちした藤枝は、珠輝を連れてひとまず廊下にでた。

言っても聞かないやつには実力行使しかない。
携帯を手にすると、珠輝から空井のメルアドを聞き出した。

連絡がほしいと電話番号とこちらが出られる時間を送るとすぐに返信が返ってきた。10分後に連絡します、とある。

それを珠輝にも見せて、ひとまず話を預かることにした藤枝は一度、自席に戻って打ち合わせの予定を確認する。

そしてきっかり10分後、空井から電話がかかってきた。

「藤枝です」
『あ、もしもし。空井です』
「すいません。わざわざお電話いただいて、今よろしいですか」
『はい』

話しながら、フロアの真ん中にある、屋上のような場所に移動した。ほかに誰が来てもすぐにわかる場所である。

「じゃあ、単刀直入に。空井さん、明日お休みとれませんか?」
『……は?』
「もし、とれるようなら今夜から東京に来ていただけないかなと。明日、稲葉を休ませたいんです」
『……どういうことか、もう少し詳しく教えていただけますか?』
「もちろん。空井さんは稲葉が怪我をした話、お聞きになりましたか」

電話の向こうで、かすかに雰囲気が変わった気がする。ええ、ききました、という空井の反応からすると、やはり経緯は話していないらしい。そこで、珠輝から聞き出した事の顛末を話して聞かせた。

『……』

話し終えたところで、電話の向こうが深いため息をついた。
まあそうだろうと思う。藤枝自身も、ふざけるなよと苛立ちを感じたのだ。
それと同時に、その場にはいなくても、その後のリカの傍にいられることに優越感も覚えた。

―― 今ここにいないやつに遠慮するなんて俺にはないね

そのくらいの気持ちでいたのだから、自分でも今のこの電話は対決するためもあるなと思っていた。

「そんなこともありましてね。もし明日、空井さんがお休みできるなら今夜こちらに来ていただけないかなと」
『わかりました』

―― ……今、わかりましたって即答した?

言い出した藤枝の方が戸惑うほどきっぱりとした口調で、返事が返ってくる。

『ちょうど、自分は今、抱えている案件もありませんし、落ち着いているので、すぐこれから明日の休みを申請してみます。それで、僕がこっちから仕事明けで東京に向かった場合、21時くらいには都内にいられるんですが、藤枝さん、お時間ありませんか』
「えっ……。俺ですか?俺、別に今日は稲葉と飲みに行くつもりなんかありませんでしたが」
『いいんです。自分も、藤枝さんとお話したいことが合ったので、もし時間があるならと思って』

“お話したいこと”

さすがにこのタイミングでこれが来るとは思っていなかった。確かに行動に移したのは藤枝の方だったのだから、身に覚えのある身としては断れないだろう。

「わかりました。じゃあ、前に稲葉と飲んでたあのバー覚えてます?あそこで」
『覚えてます。わかりました。自分、少し遅れるかもしれませんが』
「あー、いいですいいです。俺もあんまり時間に正確な方じゃないんで、21時くらいにそこってことで」

ざるっとした予定だけを立てた後、じゃあ、と言って電話がきれた。
言うことを聞かないリカのために、実力行使とばかりに電話でチクり、休ませる段取りまではよかったが、それが自分と空井が話をすることまでセットでついてくるとは思ってもいなかった。

「やっべ。さすが、元パイロット。判断、はええわ」

気を抜けばやられる。もとより、負け戦ではあるが、藤枝にも言い分はある。
携帯をワイシャツの胸ポケットに入れると、いよっし、と藤枝は自分に気合いをいれた。

電話を切った後、妙な気持ちだな、と空井は自分でも思った。
あえていうなら、ドッグファイトの前のような落ち着いているのに自分の中で、妙な高揚感が暴れているような。

基地の建物はどこもそこそこ古いが、松島はこれでも震災のあと補修されて少しは小綺麗になっているほうだ。
その廊下の隅で電話を切った後、自席に戻った空井はすぐに休暇願を書き始めた。それに、リカが取材に来たあの日以来、空井の旅行届けは毎週、着々と行を増やしている。

それぞれ記入すると渉外室長が出先から戻るのを待った。
今日は、東北六魂祭の関係者との打ち合わせのはずだ。今年は福島で行われる、東北六県の祭りが集まるりで、ブルーインパルスは展示飛行を行うことになっている。

案件を抱えていないなんて大嘘だ。
六魂祭までは取材も多いし、メインはボランティアの実行委員会だけに、慣れていない相手とも一緒に考えなければならないから、いつもより仕事はたくさんあった。

それでも。

今は動きたかった。

午後、室長が戻ってから不在中の用件を確認し終わるのを待って声をかけた。

「室長、少し宜しいでしょうか」
「おう。なんだ?」
「急なお願いで大変申し訳ないのですが、明日、お休みをいただけないでしょうか」
「何かあるのか?」

今、仕事を抱えているのに空井が無理を言い出すには訳があるとみた山本は、快諾しかねてひとまず問いかけた。

「私用で申し訳ないのですが」
「いいから言ってみろ」

気持ちは決まっていても仕事を投げ出すような気がしているのも事実で、空井は素直に理由を言うのは抵抗がある。
だが、力強い山本の言葉は自分と、リカを支えてくれた空幕広報室の面々と同じ気がして、空井は迷った挙句、口を開いた。

「実は、稲葉さんが怪我をしたらしくて、あの、でも、そんなひどい怪我じゃないみたいなんですけど、本人は心配かけたくないからか、きちんと教えてくれなくて。同じ局の人から教えてもらった状態なので、無理を言っているのはわかっているんですが……」

空井が松島にきて以来、こうして無理を言ってまで休みを取りたがるのは初めてのことだ。
リカが取材に来たあとも、本音では休みをとって、リカの元へ行きたかったはずなのに、仕事があるからと律儀に週末を待った。
その分、金曜日の夜から毎週のように東京に通っているわけだが。

「ふむ。緊急を要するとか、入院してる訳ではないのか?」
「はい、それは。逆に普通に仕事に来てるのが問題みたいで」

話を聞いているうちに、なるほどと思う。空井の嫁になるだけあってというべきか。
仕事に対してガツガツらしいと聞いてはいたが、怪我をしていても仕事に出るとなれば、周りの方が気を使うし、困る事も多い。

それを止めたいということかとようやく納得はしたが、今の状況もある。

しばらく考え込んだ山本の前に立っていた空井が、諦めようと書類に手を伸ばしかけたのを、サッと山本が手を引いた。

「空井。婚約者の怪我じゃ、心配だろうが、今は六魂祭が控えてる。週末の休みは確保してやる代わりに悪いが休みの許可はやれんな」
「そう、ですよね。わかります。無理を言って申し訳ありませんでした」

頭を下げた空井に休暇願だけを差し出した山本は、なぜか旅行届けはまだ手にしていた。

「それでだ。今日の打ち合わせで幾つかまた話が進んだのがあってな」
「はい」

仕事に頭を切り替えろと言うのか、話が変わったことに嫌でも空井は背筋を伸ばした。

「ブルーが飛ぶのは開催初日だけのはずだったが、これを先方は2日とも飛べないかと言って来た」
「2日ですか?!」

ありがたい話ではあるが、これから内局との調整も必要になってくる。年間の展示飛行を考えても2日飛ばすことはかなり難しい。
できるのだろうかと考えている空井に向かって山本はもう一つ、難題を突き付けてきた。

「それから、メイン広場にブースを一つあけてくれることになった」
「えっ?これからですか?」

開催日から考えると、もう一か月を切っている。
これは流石に、休みなど無理な話だと空井が己の我儘を恥じたところに、山本がニヤリと笑った。

「つまり、だ。俺達、松島の広報だけでは回り切らん。市ヶ谷に行って、空幕広報の協力を仰いで来い」
「え……」
「ブルーを飛ばすことは俺達の仕事だ。だが、広報ブースは俺達だけの仕事じゃない。すぐに市ヶ谷の予定を聞いて行って来い」

確かに、これは松島だけで調整できるものではない。そして、空幕にいた空井だからできるパイプでもあった。
仕事としては大事なことで、すぐにでも動くべきなのはわかっていたが、それを自分にまかせてくれた山本の気持ちが伝わってくる。
今すぐと言われても今は木曜日の午後14時過ぎ。すぐ支度をして向かっても、終業ぎりぎりの時間にしかつかないかもしれない

「でも、これから……、ですか?」
「もちろん。明日も調整にあたってもらうとしても、朝から向こうで仕事をするには今日の内に段取りをとっておく必要があるだろう?もちろん、早く行って仕事が終われば、早めに上がろうが構わんからな」
「!」

そういうと、旅行届を空井に向けて差し出した山本は、この日付のところだけ直して提出するように、といった。
木曜の夜から移動と書いていたが、出張扱いなら金曜の夜からでいいというのだ。

同じ部屋にいた報道班の年輩隊員が、向こう側のデスクから片手をあげる。

「空井一尉。山本室長のご厚意に甘えなさい。皆、あなたが思いがけずあの日、ここに来ていた日からずっとあなたのことを見てたんですから」

他にも数人、渉外室の部屋には隊員たちがいる。彼らは皆、空幕の頃の皆とは違って、放っておいてくれるようでいて、さりげなく空井が動きやすいように仕事の振り分けをしたり、フォローをしてくれていることには空井も気づいていた。

声をかけてくれた隊員は、比嘉のような存在でもあった。ぐっと唇を噛みしめた空井は、ありがたくて申し訳なくて、深々と空井は皆に向かって頭を下げた。

「ありがとうございます……!」
「空井一尉がいた空幕広報よりは規模が小さいのかもしれませんが、私達にとってはこの六魂祭は一大イベントですからね。それを成功させるためにも空井一尉の力が必要ということですよ」

鷺坂とは違うが、山本は立ち上がってパンパン、と勢いよく手を叩く。

「よし、ほら急げ急げ。俺はあれだ。土産、ひよこでいいぞ」
「山本室長。それは鎌倉ですよ?」

そういいながらも、空井の移動は仕事であれば新幹線になる。チケットの手配をするのは別の者が行うため、それ用の申請書が必要になる。
その紙を空井に渡しながら、隊員はさりげなく付け加えた。

「空井一尉。指定席は手数料を払えば乗車変更ができます。乗車券の有効期間は四日。日曜の夜ですから。ちなみに、自分は東京ばな奈のキャラメル味が大好きです」
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください!」
「大丈夫です。比嘉空曹長がご存知ですから」

申し訳ないと思うよりも、もう走り出す以外に道がないように仕向けられた空井は、頭を下げてすぐに書類作成に取り掛かった。

投稿者 kogetsu

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