頭を切り替えて仕事に向かった後は、懐かしいくらいの空気で三人がやり取りをしている姿を今の広報室メンバーが驚いた顔で眺めていた。
空幕の比嘉と、松島の広報である空井と、外部の人間であるリカが次々と互いにパスを送りあっている。
「メイン広場のブースなんですよね?ずっと開催中は開きっぱなしですよね」
「そうですね、だからどういう風に何を見せるかなんですけど」
「ブルーインパルスが松島に戻ってきたってことから今回の展示飛行があるので」
主に比嘉とリカがアイデアを出しながら空井がそれをメモを取って実現度のレベル感を丸バツ三角で描いていた。
おおよその内容はやはり系列局の取材になりそうだと思いながら、それでも展示ブースのアイデアを次から次へと発散気味に出していく。
一通りまとまってきたところで、比嘉と空井は必要な書類書きの時間になる。
「私、じゃあ、これで」
「あ、気にしなくていいですよ。稲葉さん」
「いえ、今は密着取材してるわけじゃないので」
夕方には間があるわけで、リカは一度その場から立ち上がった。比嘉が気を使って引き留めてくれたが、時間になったらりん串に行くと言って一度、空幕を出ることにした。
エレベータホールまで送りに出た空井に向かって、何度か何かを言いかける。
「何?」
「ううん。じゃあ、あとで行きます」
「うん。腕、痛くない?」
経験上、疼くように痛むことがあるのも知っている。心配そうな顔でリカの手にそっと触った空井に大丈夫、と頷いた。
「じゃあ、あとで。もしかしたら、ちょっと遅れるかもしれないけど」
頷いた空井にひらりと手を振ると、エレベータに乗り込んだ。
広報室に戻った空井と打ち合わせスペースを使って残りの話を詰めはじめた空井に向かって、比嘉がぽつりと呟いた。
「稲葉さん、すごく、きれいになりましたね」
あまりに唐突な呟きの比嘉に、手元に集中していた空井は聞き逃しかけて、顔を上げると、自動的に自分の耳の中で繰り返される。
「すごく、すごく、きれいになったと思います」
自信に満ちた顔で比嘉が頷く。いつも穏やかに笑う比嘉が、何度も口を開きかけて頷いてを繰り返す。
「比嘉さん……?」
「いえ、よかったなぁと思って。ただ、それだけです」
口元をきゅっと引き締めた比嘉がそうつぶやいて、手元の書類に戻っていく。印刷されたそれらに記入するのは自分たちの名前と日付、そして印鑑ばかりである。
それに応える空井も、何度も頷いて書類に戻った。
「それ、持つよ」
思いがけないりん串での飲み会。
その帰り道、リカが片山からもらった大きな花束をリカの手から空井が預かった。
予約時間ちょうどにりん串に向かった空井と比嘉は、早々と到着していた鷺坂、槙、柚木の三人に迎えられた。
「よう。久しぶり」
軽く手を上げて、さっさと注文済みの飲み物を手にした彼らの前に比嘉と並んで腰を下ろした。
「稲ぴょんは?」
「あ、そろそろ来ると思うんですけど……」
今日は、臨月の妊婦もいることだし、時間も早め、2時間きっかりという話で集まっていた。座敷の中でも一番端の席で、柚木が寄りかかって座りやすい場所にしてもらっている。
そこにヒールの音がして、リカが姿を見せた。
「遅れてすみません。柚木さん!大丈夫ですか?」
「へーきへーき。逆にねぇ。ここまできたら動いた方がいいんだけど、うるさいのがいるからさぁ」
あはは、と笑いながらジュースを片手にしている柚木を、隣に座った槇が当たり前でしょう、とぶつぶつ言っている。
空井の隣にリカが座るのを待って、改めて、と鷺坂が口を開いた。
「改めて、空井、稲ぴょん。結婚おめでとう!」
うんうん、と頷く面々を前に空井とリカはそれぞれに頭を下げた。
式よりも先に籍を入れることはすでにみんな知っている。それはそれとして直接会って、祝ってやりたかったという皆の気持ちがありがたい。
「片山さん、遅いですね」
「そうですね。でも空井一尉には遅い方が、ねぇ?」
比嘉が、にっこりと笑うと、柚木がそれに乗ってくる。
「そうだそうだ!お前、稲葉の事、ベッド以外で泣かせたらぶっ飛ばすぞ」
「柚木さん!!」
「当たり前じゃん!あ、何、その反応。もうすでに泣かせてますってか!」
妊婦でもおっさんは健在。伊達に男職場で鍛えられていない突っ込みに、リカが赤くなって違います!と叫んだ。
この場は片山の攻撃からはリカを守るつもりだった空井も、思いがけない柚木の突っ込みにしどろもどろになる。
「いや、泣かせませんから。……あれ?それ、否定されると」
「ほらぁ!否定するってことはお前、稲葉の事、満足させてないってのか!こら!」
「いやいやいやいや、そういうことはっ」
ないはず!と言いかけた空井の片腕をものすごい力でリカが引っ張る。勢いに任せていると否定するはずが全暴露になってしまう。
無言で首を振ったリカに、あっと、我に返った空井がごめんなさい、と呟く。
にやにやと笑いながら焼き鳥の串を手にした鷺坂が割って入った。
「まあまあまあ。若い二人のあまーい時間の事なんか追及するもんじゃないよ。そういうのはね。俺がしっかりと事前に教育してあるから。な?空井」
「あっ……、いや、それはっ」
さらに旗色が悪くなった空井が、リカをちらっと見てから室長!と小声で叫ぶ。
きょとん、としたリカが空井の顔を見上げた。
「教育ってなんですか」
「いや、なんでもないから!」
「なんでもないって、今、鷺坂さんが言った」
自分の知らないところで何をとリカの視線が昼間の話に続いて鋭くなる。なんだ、稲ぴょんには言ってなかったのかぁ?とわざとらしい鷺坂の呟きに、わざとだ!と恨みがましい視線を向けてしまう。
男同士の話など、リカに言えるはずもない上に座談会で説教された話などましてやである。
変な汗まで浮かんできた空井が、必死になって弁解している間に、次のビールが運ばれてきて、二人のやり取りを面白がって見ていた周りはしみじみと二人がこういう言い合いもできるようになったことを嬉しそうに眺めていた。
「よお!」
遅れて現れた片山は、手に何かを持っていて、足元に隠すように登場した。
「遅かったですね。片山三佐」
「悪りぃ、悪りぃ。一本、飛行機乗り遅れちってよぅ」
定期便利用ではなく、プライベートのため、民間機で移動してきた片山は空井の陰から顔を見せたリカに久しぶりぃ、と言った。
「よう、稲ぴょん。空井にリカぴょんっていわれてるんだって?」
「言われてませんから!片山さんこそ、彼女さんに和ちゃん、とか言われてるんじゃないですか?」
「ばっか、俺はねぇ。基本的に、和君、しか呼ばせないの」
のっけから片山節炸裂かとおもいきや、比嘉を押しのけて空井とリカの方へと近づいた片山がぬーっと手にしていた物を差し出した。
「え……?」
「片山さん?」
空井とリカが驚いて顔を見合わせていると、ぬっと突き出されたそれがもっと近くに来る。
ピンク色をベースにした花束だった。
「空井にじゃねぇよ。稲ぴょんにだよ。よくまあ、この飛行機馬鹿の男を諦めずにいてくれたなぁという礼だ、礼。俺達からのな」
俺達、という言葉に顔を向けると槇やその場にいる全員が頷いていた。
「ありがとうございます。でも、お礼なんて……」
「いーのいーの。湿っぽい話するために来たんじゃねぇのよ」
ひらひらと手を振って、槙と比嘉の間に腰を下ろす。
一番、この中でも難しい結婚を決めた二人を、なんだかんだと言いながらも片山も気にかけていた。だから、花束でもと言い出した時は、柚木が目を丸くしたものの、細かい指示を出して買ってくるように仕向けたのだ。
「こいつもさ。自分も彼女いないくせにずーっと心配してたんだよ。結局、あたしたち全員、稲葉が来てから変わったもん」
「そうだなぁ。稲ぴょんはここにいる全員の時間を動かしてくれたんだよなぁ」
しみじみと柚木と鷺坂にそう言われたリカは、胸の前に花束を抱えて首を振った。
「そんなことはないんです。私だって、皆さんと出会ってからいろんなことが変わって……。きっと出会わなければ、変わらなかった。鷺坂さんがよくおっしゃっていたみたいに、人生は出会いだって。その出会いで、人生が変わることもあるんだって、教えていただきました」
「そうだよー。空井も稲ぴょんに会わなかったら未だに燻ってたかもしれないもんなぁ。槙と柚木も結婚したし。片山も彼女ができたし」
その場にいた全員が頷いているところで、はっと何かを思い出したリカが花束を脇に置いた。鞄の中から茶色の素っ気ない封筒を取り出す。
ボールペンと一緒にそれを鷺坂に差し出した。
「あの、これをお願いしようと思って」
隣りに座っている空井をちらりと見ると、勝手にすみません、と小さく呟いた。
何々?と封筒を覗いた鷺坂が目を丸くする。
「稲ぴょん……。空井と話してないの?」
「鷺坂さん、今も宮城と往復されてるっておっしゃってたので、いただけるタイミングで書いてもらっておきたくて」
「そりゃ……」
いいの?という視線に二人を交互に見ていた空井がなんですか、と手を伸ばした。
鷺坂から封筒を受け取った空井は、するっと中に入っていたものを広げてしまう。
「あ、馬鹿」
鷺坂が止める間もなくひらりとそこに広げられたものは婚姻届だった。
「!」
「……あのっ、自分達はいつでも書けるけど、保証人のところはどうしても、鷺坂さんとうちの上司の、阿久津にお願いしたくて……」
空井と話をする前に、ついさっき思い立って区役所によってもらってきたものだ。
勢いだと言われたらそれまでだが、この怪我がリカに覚悟を決めさせた。自分だけじゃないから、ちゃんとしよう、と。
「……」
「ちょっと、空井!なんか言いなさいよ」
「あ、はい……」
まだ白紙のそれを目にして固まってしまった空井を見て、いたたまれなくなったリカが目の前に広げられたそれに手を伸ばした。
「やっぱり、ごめんなさい!これ、今はなしで!」
「あ……あ!」
慌てて取り返そうとしたリカの手を避けようとした空井の間で、伸ばしたリカの腕が当たって、見事に用紙の上にビールの海ができた。
周りがあたふたと手拭を投げ込んだが、もともと薄っぺらい用紙である。引っ込みもつかず、どうしていいかわからなくなったリカが俯いて、届のなれの果てを両手でくしゃくしゃに引き寄せた。
「……ごめんなさい」
腕に巻いた包帯の端もビールの洗礼を受けている。その手をポケットから出したハンカチで拭って、空井がリカの手からくしゃくしゃになった用紙を取り上げる。
比嘉と柚木がテーブルの上をきれいに拭いている間に、手を引っ込めたリカの頭を空井がぽんぽん、と撫でて引き寄せた。
「鷺坂室長」
「なによ?」
「改めて、今度お時間いただけますか。今度は、僕らが先に記入してから持っていきます」
俯いて顔を上げられないリカの肩を抱いた空井が頭を下げると、鷺坂はぐっと親指を立てて頷いた。
「いいとも。二人が都合のいい日を連絡してきなさい。極力お前たちにあわせるから、こっちでもいいし、松島でもいいから」
「ありがとうございます」
「ほら、あれだ。稲ぴょんも懲りてるから。空井の気が変わらないうちにガツガツっと先に進められるものは進めたかったんだよな」
先走ってしまったことが恥ずかしくて、情けなくて、泣き出したリカを空井が覗き込む。
「そうなの?」
「あったりまえでしょ!あんたは自分で決めて、それでよかったかもしれないけど、一方的に切られた稲葉の方はどんな思いで過ごしてきたと思ってんの!」
ついつい、リカの肩を持ってしまう柚木が新しいおしぼりを空井に向かって投げる真似をする。
そうだよなぁ、とその向こうから片山が片手を上げた。
「稲ぴょんが松島に行く前に、お前に会ったらフライングクロスチョップをくらわせてやれって言ってたもんな」
「そうですね。そんなこともありましたね」
比嘉が相槌を打てば、おいちゃんだって稲ぴょんを迎えに行ったんだぞ、と鷺坂が口を尖らせる。
そういう事を言われれば言われるほど、泣けてきて止まらなくなる。ごめんなさい、止まらない、というリカを空井が何度もその肩を撫でた。
「僕にできることは全力で大事にすることだけなんですが、それでもやっぱり、いつも傍にいられるわけじゃないんです。だから、もし何か離れている時に何かあった時は、僕達に力を貸してください。お願いします」
「なんだよ、結婚前からDVか?って心配したのに、そんなことなさそうだな、おい」
「ちょ、違いますよ!片山さん。これはリカが取材中にちょっと怪我しただけで」
「うぉ!今、さらっと【リカ】って言ったぞ、こいつ」
いつもの口調に戻った片山が突っ込んでも、今はプライベートですから、と空井も堂々と言い返す。
しばらくして、彼女のところに行くのだと片山が言いだして、時間は早いがお開きにとなった。
「部屋の中、お花でいっぱいですね」
「……片山さんのは、ドライにできないかも」
「枯れたら仕方ないけど……。リカがこういうのがある方がいいなら今度は俺が買うよ。こっちに来るたび」
毎週来るつもりかと突っ込みたかったが、すでに店にいる間に泣きすぎてそんな気力もなかった。
最寄駅を降りたところでリカの手を引いていた空井がリカの顔を覗き込んだ。
「明日。指輪、見に行きましょう。リカが行ったところに連れて行ってください。ちゃんと彼氏だって」
「あ……はい」
「それで、明日、決められたら決めて、すぐもらえるのかな。サイズとかありますよね」
「たぶん、すぐは無理じゃないかな……」
普通はイニシャルを入れるとかあるだろうし、入籍日を入れる場合もある。
なるほど、と呟くと、うーん、と空井はカレンダーを思い浮かべた。
「じゃあ、明日決めて、今月中には受け取れるだろうから、取材、できるかどうか難しいと思うけど。出来なかったら休みとって見に来てくれる?」
「え?休み?って……、あ、六魂祭?」
「そう!」
急に回転し始めた空井の思考についていくのはいつも難しい。
指輪とお祭りがどうつながるのかと思っていると、空井がつないだ手をぎゅっと握りしめた。
「僕も、その二日間は現地に行かなきゃいけませんが、そのあとに休みはもらえるだろうから、出しに行きましょう。一緒に」
「え?ちょっと待って、なんの話?」
「婚姻届です」
そのころには、リカの怪我も治っているだろう。そしたら、一緒に写真を撮ろう。
「式とか、そういうのはゆっくりでもいいから。……駄目、かな」
駄目なわけがない。
首を振ったリカは、ぎゅっと掴まれた手を握り返した。口を開いたらまた泣いてしまいそうな気がする。
「最近、俺もリカの泣き顔に慣れてきた気がする」
ぽそっと呟かれた一言が悔しくて、つないでいない方の手でばしっと空井の肩を叩いた。
―― 叩かれてもそんなの全然痛くないよ
空井にとっては、リカに泣かれる方がよほど痛い。
それを思いながら、ゆっくりと歩いてリカの部屋に戻った。