「さあて。どうなるかな」
「なにが?」
「いやいや、こっちの話」
リカとわかれた後、藤枝は馴染の店に飲みに来ていた。そこは、顔なじみの常連客も多くてあちこちで見かける顔をみては気軽に挨拶を交わす。
その中でも女の子が一人、藤枝さんだーといって、カウンターに陣取った藤枝の隣に座る。一緒に飲んでいい?と聞かれればもちろん、と全開の藤枝スマイルだ。
「ちょうどよかったよ。俺も会いたいなって思ってたんだ」
「またまたぁ、嘘ばっかり」
「嘘じゃないよ。信じてみる?」
ん?と片眉を上げて隣の彼女にすうっと近づけば、きれいなまつ毛の先が揺れて、女の子の動揺が手に取るようにわかる。
信じたいけど、信じられないけど、でも嬉しい。
そんなものは、ニュースを読むよりもはるかに簡単だった。
肩をぴったりとくっつけて、距離を狭めれば女の子からはいい匂いがする。
「この香りを嗅いじゃうと俺、離れられなくなっちゃうよ?」
どれもこれも嘘くさいと思われそうだが心底から言っている。心底、女の子が好きなのだ。
リカにはいい加減にしないといつか刺されるぞと言われもするが、それも一興かなと思う。みんな好き。
皆好きだけど、本当に傍にいたい女には触れない。
―― 物好きってよく言われるんだけどね
蕩けるような軽くて甘い会話を楽しみながら思わず口を付いた独り言を思い出す。
花束につけておいたリボンに、リカは気づいていないだろう。気づいていればすぐ何か言ってきたはずだ。
入れる花瓶がないから丸ごとドライフラワーにすると宣言していたのも聞いている。きっと外側のラッピングのままで吊るしたのだろう。
大雑把な女、と思うがそれもリカらしい。
ある意味、リカが気づいても気づかなくてもいいのだ。それくらいの覚悟がなければ今更、あんな真似はしない。
「じゃあ、これからどうする?なんだか俺、一人になりたくないなぁ」
「ほんと、藤枝さんって軽い~。でもスキー」
相手も後腐れのないタイプで、本命の彼氏がいることも知っている。
全く遊び相手には困らない藤枝はひとまず店をかえることにした。
まだ幾度か、数えようと思えば数えられそうなくらいしか肌を合わせていないのに、ひどいことをした、と空井は自分自身でも砂を噛むような思いだった。
嵐のような時間に飲み込まれたリカは、力尽きて眠っている。
息が整ってから深い後悔に襲われて、眠る顔を見て改めて自分自身を殴りたい気分になる。
涙の跡と、強く噛み締めたらしい唇の端が少しだけ赤い気がした。
ベッドサイドだけに灯りを落とした空井はそっと涙の跡を拭ってタオルケットをかけてやる。乱れた髪をそっと撫でて、ベッドを抜け出した。
部屋の中に散らばった服をそろえて、ソファに乗せる。だるさが鬱陶しくて、そっとバスルームへ向かった。
温度を低くして頭からかぶれば、冷静さは取り戻せる。そのわりに後悔と考えたくなかったことが頭の中で首をもたげてくる。
リカがあの日松島に取材に来ることを藤枝は後押ししたと聞いている。
その後も、リカが空井に会うために週末のスケジュールをあけようとすると、藤枝が協力してくれたと耳にしてもいた。
そんな彼が何がしたいのだろう、と思う。
あの様子からしてもリカは花束に込められているらしい意味に全く気づいていないらしい。だからといって特に何かリカ本人に対して動いたわけでもないらしいことも不可解である。
これが空井と結婚を前提にして付き合いが始まる前なら牽制だろうと思えなくもないが、それも今では当てはまらない気がする。
―― 後は、宣戦布告……?なのかな
なぜこのタイミングなのかはさておき、考えられるのはそのくらいしかない。
鞄の中に押し込んだリボンと指輪が重くのしかかる。ただ、今ここにいてあれを見る気にはなれなかった。
体が冷えた頃になってようやくシャワーを止めた空井は、頭からタオルをかぶって部屋に戻った。着替えてから濡れた髪を拭ってテーブルの上に放り出していたリカの通帳と指輪のパンフレットの前に座る。
これを全部使ってもいいからもっと会いたいのだと言ったリカ。
指輪つきの花束を贈っておいて、自分との結婚指輪の下見に付き合った藤枝。
空井自身は、会いたいと言ってくれたリカの気持ちが嬉しくて、やはり無理をしてでも自分の方がもっと動くべきだったと思う。
知らず知らずのうちに深いため息が出る。床の上にじかに座った空井は膝の上に腕をついて頭を抱えた。
二度と手放すつもりはない。それだけ思っていても、遠距離とこういう横やりにはどうしても頭を抱えてしまう。
「……」
もそっと動いた気配がしたが、リカが寝返りをうったのだろうと思っていたらタオルケットにすっぽりとくるまったリカが背後から空井の背中にぺたりと寄り添ってきた。
Tシャツの背中に触れた温かさに顔を上げて振り返った空井は、背中にぺたりと頭を寄せているリカを見る。ごめん、と口を開きかけた空井よりも早く、リカが口を開いた。
「……ごめんなさい」
空井が謝るよりも先にリカの方が謝って来たので逆に驚いた空井がリカを抱き留めながら座っていた向きを変えた。
「なんでリカが謝るの。謝るのは俺の方じゃないの?」
ふるふると首を振ったリカが、すっぽりと空井の腕の中に納まった。
「私が……無神経で、変なこと言ったから……」
だから、怒った空井が怒りにまかせて抱いたのかとリカは思ったらしい。重さをかけないようにそっと寄り添っているのも弱々しくて、空井は思わずぎゅっとリカを抱きしめた。
「違う!……全然、そんなの違うよ。ごめん。俺の方がほんと、一方的に悪いんだ」
単純に言えば嫉妬に負けた。
それを素直に言えれば苦労はないが、リカは何も知らないところでの話でもある。ただ、謝るだけ謝って言葉を濁した空井にタオルケット越しのリカの手がぎゅっと胸元に触れた。
「そんなことない……。私が悪いの」
―― だから嫌いにならないで……
最後に小さく小さく呟かれた言葉に胸が締め付けられる。
泣かせたいわけじゃない。二人の関係もまだ始まったばかりで、幸せにしたいと思っているのに不安にさせてしまった。
肩を震わせているリカの頭をすっぽり隠れたタオルケットの中から救い出す。頬に両手を添えて額を合わせると、リカの目頭から涙が一筋、零れた。
「……謝っても全然足りないくらいだけど、本当にごめん。もう二度としない。怖がらせてごめん!」
「……うん。ちょっと怖かったかな」
ぐすっと鼻を鳴らしたリカがそっと空井から離れる。
シャワー、浴びてくるね、と言って、立ち上がったリカはソファに置かれた着替えに気付くと、まるっとそれを腕に抱えてバスルームへと消えた。
シャワーを浴び終わったはずのリカがしばらく部屋の向こうでパタパタしていた。
しばらくして、着替えを終えたはずなのに、タオルケットにくるまった姿で戻ってくる。
どうしたの、と視線で問いかけた空井の傍に来たリカの顔色があまり良くない。
「……ちょっとお腹痛くなって……」
「えっ?俺のせい」
「違っ!!違うの!!あの……」
歯切れの悪いリカにしばらくしてから、あっ、とようやく理解する。月のものが来たということなのだろう。
一緒にいるようになってから、タイミングもあったのだろうが初めて言われた。
「……具合悪い?横になって休んだ方が」
女性隊員も松島にはいる。それとなくはいくら鈍い空井でもわからなくはない。
そんなリカにと思うと、心が痛む。
俯いて首を振ったリカがいつになく小さく見えて、たまらない。ふわっとリカを抱き上げると、そうっとベッドに横にならせた。
「寒い?……どうしていいかわからないから言って」
「……大丈夫。ほんとに、仕事してたらこんなの平気だから。もう気にしないで」
「でも……」
男の空井にはどうしていいのか全く分からない。
困惑と心配でベッドに腰を掛けてリカの髪を何度も撫でる。
「……かえって、気を使わせてごめんなさい。本当はもう少し先だったはずなんだけど」
「そういうもの?」
「わりとね。そんなに決まった日に来たりしないの」
ベッドサイドの灯りは小さくて、眠いのか、辛いのか、リカが半分目を閉じそうになっている。
「眠れそうなら眠って?」
「……嫌じゃなかったら、傍で……。一緒に眠って」
―― 嫌なはずない。当たり前じゃないか
リカの隣に長身を滑り込ませると、抱きしめてもいいかと聞いた。
リカも同じように小さく笑って、空井の腕に体を預ける。
「明日、ゆっくりしよう」
「うん」
エアコンが寒いのか、空井の腕に包まれていると温かい。そのままうとうととリカは眠ってしまった。
翌朝、目が覚めた後も、空井はひたすらリカに気を使って何度ももういいから、と言われた。
「それより出かけません?」
「駄目」
「せっかく一緒にいるのに。指輪、見に行きましょうよ」
リカが何度もそういっても、駄目、の一言で却下された。
「だって顔色悪い」
「そんなの平気ですよ。仕事だったらこのくらい普通に行ってるし、こういうので休んだことなんかないもの」
「それは仕事だからでしょ?今は駄目」
空井はそういって譲らなかった。買い物してくる、と言って近くのスーパーまで行って、三食全部を空井が作った。
「変なの。病人じゃないよ?」
「いいんだよ。俺がしたいから」
何度目かでいくらいっても、空井の心配は変わらないらしいとわかってからは、リカの方が折れた。
家の中にいて、ぼんやりとテレビを眺めながら他愛のない会話が続く。
「それにしても、リカらしいけど、こんなお金使っちゃ駄目」
「それは、今すぐ全部使うってわけじゃないけど、毎回の新幹線の往復だって結構するじゃない?」
「それはね。回数券でも買おうかな」
「あるの?」
うん、と言って、リカのノートパソコンを二人で覗き込む。確かに仙台東京間の回数券がある。
6枚つづりなどたった3回分である。
「……いい値段」
「……だね」
「これはさ。やっぱり俺の方がこっちに来るのがいいんじゃないかな」
えー、とリカが不満そうな顔になる。膝を抱えて座るリカの背後に空井が座っている。横を向くとすぐに頬が触れた。
「確かに安いのかもしれないけど、車で何時間も走ってくるのはちょっと嫌かな。なんか心配。途中で事故にあったらどうしよう、とか」
「そんなの考えてたの?」
「うん。だからいつも、着いたよってメールが来るまで眠れない」
それだけ心配してくれているのだとわかっても、やはり無理をするのは自分だけでいいと空井は思ってしまう。
リカが来るには新幹線とはいえ3時間近くかかる。それを考えれば、空井が車で来た方が体力もあり、無茶もきく。
「でも、俺が来た方が楽だよ」
「そんなことない。大祐さんだって、金曜日の夜に来て、日曜日の夜に帰るなんて全然休めないよ」
「大丈夫。リカの傍にいた方が休めるよ」
駄目?とねだられれば、リカも嫌とは言えなくなる。会えないのとどちらが我慢できるだろうか。
空井に頭を預けたリカは、絶対に無茶しないで、といった。頓狂なスピードを出せばいくらでも早くつける。
耳元でくすっと笑う声がした。
「あのねぇ。俺、これでも自衛官だから。自衛官がスピード違反で捕まったらまずいでしょ」
「あ」
「だから心配しなくても大丈夫」
そうだった、というリカを空井が笑う。今更?と言われても、なぜか、すこんとそこだけ抜けていた。
「でも心配は心配だから、気を付けて」
「わかってる」
「もし少しでも危ないことがあったらあの車に一個ずつぬいぐるみ乗せる」
はぁ?!と驚いた空井に、にやっと笑ったリカがいいことを思いついたとノートパソコンを叩く。可愛いのからどこか恐ろしげなものまでこういうのは?と見せてくる。
「……俺、仕事で車使うからそれはちょっと」
「じゃあ、危ないこと、しないでね」
「う……、わかりました」
渋々、頷いた空井が妙に可愛くて、昨日のこともなんだか、よかったなと思う。
日頃、我儘や感情をぶつけてくることがほとんどない空井が、謝りながらもあんなにも自分を求めてくれた。
確かに少し怖くなって、抵抗もしたが、それでも空井が感情をぶつけてきたことには素直に嬉しかった。
「空井大祐さん」
久しぶりにフルネームで空井を呼んでみる。
目を丸くした空井がぱちぱちと何度も瞬きをする。
「あのね。お願いがあります」
「はい」
「私はこらえ性がないからなんでもすぐ言っちゃうし、怒ったり、拗ねたりしちゃうんだけど、大祐さんも、溜め込まないで。一人で考えないでちゃんと教えてください」
リカの声が柔らかいのに、至極、真面目なことに気づく。
そして、昨夜のことを言っているのだと遅れて理解した。
「わかった」
ぽつりとそういうと、二人そろって頭を寄せ合う。
互いに不器用で、気持ちをぶつけあうことも下手だけど、それでもこういうことや喧嘩も大事な積み重ねになっていくだろう。
「稲葉リカさん」
「はい」
「ありがとう。あなたが大好きです」
「……私も、大好きです」
他愛ない話もいい。時々少し真面目な話と。
今だけは、空井は鞄の中の存在を忘れ去っていた。