3月3日。
女の子にとってはひな祭りで、ちょっとだけ華やぐような日も大人になれば、そういえば、程度になる。
でも、あの日は私にとって、涙が出るくらい嬉しい日だった。
突然届いた新幹線のチケット。
約束だというたったそれだけの頼りないくらいの言葉だけを信じて届いたそれに、リカは賭けてみたかった。
『空井さんの夢、隣で見てますから』
初めにそう言ったのはリカの方だったから。
少し離れたところから視線がぶつかって、お互いに、過ごした半年の時間が間にあって。
勝手に離れた自分に、何を言われても仕方がないと思いながら歩き出したリカは小さく会釈をして空井の隣に立った。
そのまま立ち止まっていても、どうしようもない。そう思って踏み出したのに、まっすぐに空井の顔を見つめていられたのは離れていた間だけで、隣に立ったら顔もみれなくなった。
―― なにか。何か言ってください
「……飛びます」
その一言に、自然と目の前の白とブルーの機体に目が行く。
「きれい……」
思わず口からこぼれた言葉は、今までずっと熱く語られる言葉の中だけにあった空井の夢の、本物がそこにあったからだ。
飛行機は、特に、彼らの乗る機体は、極限まで無駄なものを排除し、徹底的に磨き抜かれたすべての結晶のようなものだからこそ、美しい。
美しいから飛べる。
あなたの隣りで見られてよかった。
空井にとっても、リカにとっても同じ空を、同じ青を共有した日だった。
それから1年たって、また、バレンタイン特集がやってきた。
今年は復興をメインにして、バレンタインという恋愛の一大イベントと言うよりも、日頃の感謝や、応援や、変わらない想いを伝えるための日になっていた。
「珠輝。どう、企画。まとまった?」
「んー。やっぱ難しいです。女の子のための日みたいなもんなのに、なんかあんまり可愛くしたりそういうのばっかりじゃないのって」
「でも、ありがとうって伝えたいって、好きな人にも同じじゃない?出会ってくれてありがとうとか。それに、自分や親とか、友達とか、日頃のありがとうって伝えるにはいいきっかけになるじゃない?」
じっと見上げてきた珠輝の顔が、難しいままで思わず苦笑いしてしまう。あれから企画には常に、震災というキーワードが加わったので、珠輝は企画に詰まってしまうことが多い。そのたびに、リカがアドバイスをして、軌道修正し、形にするところまで持っていく。
まだ、あれからたった一年で、都内は普段の顔を取り戻しているが、特番なども組まれているほどには、何もあの日から変わっていないことの方が多い。
「わかりました。もう少し、考えてみます」
「うん。がんばって」
椅子を転がしてデスクに戻ったリカは、喉の渇きを覚えてコーヒーメーカーの傍に立った。以前は、窓側の柱の傍に置かれていたコピー機と、ペーパーを積んでいたメタルラックは移動して、代わりにコーヒーメーカーや、お茶のセットが柱の傍には移動している。
これも地震の後、窓ガラスの方に向かって倒れていたメタルラックやコピー機が危なかったので、場所を入れ替えたのだ。
「うわー。やっぱり受験シーズンって急に寒くなるんだよね」
曇った空の下、雪でも降りそうな天気に遠くまで見えるビルの間から時折、陽射しが差し込む。
スポットライトが当たるようにも見えるその風景にリカはしばし、見入ってしまう。
―― 青空が見えなくてよかった。もし、見えていたら、思い出してしまうから。
あの日見た青を。
隣りで見た笑顔を。
あれから、リカは一度も泣いていない。
自分自身、泣きたいのかさえわからないまま、時間だけが過ぎていく。
呆然としたまま過ごすには長い時間が過ぎていた。
「稲葉さん!」
「……はいっ」
会議の呼び出しに我に返ったリカは、手にしていたカップを再び戻して自席に戻った。
それから2週間弱。平日の、しかも火曜日であれば、バレンタインデーなどあまり意識しないところだが、情報番組をやっている限りはそうも言っていられない。
今日の分のキューシートをチェックして、珠輝に回してもらって会議のあと、自分の席で資料を作っていたリカのもとに定時の配達便が届いた。
「稲葉さん。これ、届いてますけど」
「んー?」
局内を回るメール便は局の中だけでなく、宅配や郵便物なども各フロアまで運んできてくれる。わらわらと担当者が集まって受け取りを済ませた後、各自に配り始めるのだ。
「何?」
ぱさっと机に置かれたのは、濃い紅茶のような赤いバラが一輪。
「こういう色、ちょっと珍しいですよね」
届けてくれたフロアのメール便担当の子にそう言われて、添えられたカードを見る。
【帝都テレビ 稲葉リカ様】
番組をやっていれば、番組のファン、アナウンサーのファン、そして数は多くないがディレクターへのファンというのもごくたまにいる。
エンドロールに名前が出ていれば、それを覚えていてファンレターが届くこともあるが、時には物が届くこともあるにはある。
バレンタインデーだからなのか、届けられたバラに嬉しさと、困惑が入り混じる。
差出人の名前がないこともよくあることなので、ああまたか、くらいにしか思わないが、バラの花というのはちょっと気を付けなければいけない。ほかの部署でも、ストーカーに発展しかけたこともある。
二つ折りのカードを開くと、そこにも印刷された文字しかなかった。おそらく、もともとのカードのに印刷されたものなのだろう。
エンボス加工の文字は『 Thinking of You 』と書かれてあった。
その手のカードはたくさんあるし、もともとのものであれば、他に選択肢がなかったとも考えられる。
ふうん、とだけ見ると、バラは短めに切ってカップに差し、カードは机に放り込んだ。
バレンタインにバラが値上がりするのは海外だけで、日本ではよほど気障な人か、海外慣れしている人くらいだろう。一応、阿久津には報告のメールを出しておいて、花が散るまでは楽しめるかな、と思う。
世間がバレンタインだと浮かれているちょっとした隙間を、誰かがリカを応援してくれているということが少しだけ温かいもので埋めてくれた気がした。
どんなに苦しくても、どんなに思い通りにならなくても、1日は確実に過ぎていく。
入間に異動した柚木とはメールや、たまの飲み会で顔を合わせるようになっていたが、このところしばらくは連絡がないなと思っていた頃、久しぶりに呼び出された。
「久しぶりですね。忙しかったんですか?」
「うん……。まあね」
「槇さんもお元気ですか?」
会った瞬間から何かを言いたげだった柚木が、うん、と一つ頷くと、鞄の中から真っ白な封筒を取り出して、リカの方へと差し出した。
宛名しか書かれていない封筒だが、その形や、貼られたシールを見ればすぐに分かった。
「柚木さん!」
「あたしも、槇も、稲葉には本当に世話になったし、仕事じゃなくて、友人として!来れたら来てほしいって思ってる」
かさ、とシールだけの封を開けて、中に入っていた招待状を開く。
友人、それも、ここ数年知り合ったばかりのリカを、披露宴だけでなく、結婚式から招待してくれていた。
「おめでとうございます。ほんと、槙さんと柚木さんが結婚するなんて、月並みですけど、すごく嬉しいです」
「ありがとう。あんたには、あん……」
どれほど、言葉を尽くしても、出会いと、タイミングと過ごした時間は、柚木と槙にとって、かけがえのないものだった。そして、リカの過ごした時間を知っているから、口を突いて出るのは、ごめん、と言う言葉になる。
「やだ、どうして。柚木さん、今泣くところじゃないですよ!どうして柚木さんが謝るんですか。こんなおめでたいことなのに」
「うん。そうだった。ごめん。槇にも怒られちゃう」
「結婚するのに、まだ槇さんのこと、そう呼んでるんですか?」
滲んだ涙を誤魔化すように大きく目を見開いた柚木をリカはからかった。
からかいながら、心の中で断りの言葉を考え始める。
きっと、柚木も槇も、空井にも招待状を送っているだろう。関係性から言っても、空井の方が呼ばれて当然である。そんな場に、リカが顔を出していいとも思っていなかった。
「柚木さん」
「稲葉、あのね」
「ストップ。わかってます。たぶん。柚木さんと槙さんには本当におめでとうって言いたいし、心から喜んでます。でも、ごめんなさい」
真っ白な封筒。
稲葉リカ様。
場所と日時は覚えたから、お祝いの電報を送ることもできるし、柚木なら新居も教えてくれるだろうから、そっちに祝いを送ってもいい。
「わかった。あたしもそんな気はしてたし」
「すみません」
肘をついてちょうどいい高さのカウンターに両手を揃えて、リカは柚木に頭を下げた。