その日の昼間。
空井は仕事中に書類を持って渉外室のある建屋を出た。手元に視線を落としながら歩き出した空井は、視界にふと違和感を感じて顔を上げた。
一番ゲートに近い場所にある建屋から少し離れたところに人影が見えた。
基地の傍はブルーのファンやそのほか、航空ファンなどがよく写真を撮りに来たりすることもあるが女性が一人と言うのは珍しい。一見して、地元の人ではないこともすぐわかったからなおさら気になった。
とはいえ、話しかけることはしない。
フェンスの表にいる人に中から声をかけるのはよほどのことがない限りしないのだ。
―― 東京の人かな……
よくある若い女性の姿だったが、着ているものや雰囲気が何となくそう見える。
何度か視線を向けはしたが、じっと見つめているのは遠くの方で、空井はそのまま別の建屋に向かった。
しばらくして、戻ってきた空井は、まだほとんど変わらない場所に立っている女性を見て、まだいるんだ、と思う。さまざまな思いを抱えている人たちの象徴でもあることは空井だけでなく、基地にいる者たちの多くがわかっている。
ゲートにいる隊員もいることだからと空井は自席に戻った。
それから、金曜ということもあって、がむしゃらに仕事をしていた空井は、用事を済ませた後、いい天気だと表を見た空井はもういないと思っていた場所に、しゃがみこんでいた女性が立ち上がったのを見て驚いた。
「嘘だろ。あれからどのくらいたったんだ?」
フェンスの周りは、雑草が生えているし、場所によっては堀になっていてすぐそばには近づけない。まして、海側の方は細い道路しかなくて、建物の影もない。
そんな何もない場所に何時間立っているのだろう。太陽はだいぶ傾いてきていて、天気がいいとはいえ夕方も近い。
さすがに放っておけなくなった空井は、ゲートを出ると、フェンスの傍をつたうようにゆっくりと歩いている女性の傍に近づいて行った。
「あの……」
咎めるわけではないので、驚かせないように少し離れたところから声をかける。近づいてきた空井の靴の音と、あわせて振り返った女性の髪の長さがリカに似ていて、声をかけた方がどきっとしてしまう。
「あっ!はい。すみません。ここにいたらいけないですよね。申し訳ありません」
「いえ、フェンスの外ですから構わないんですが、随分長くいらっしゃるので、大丈夫かな、と思って……」
「ああ……」
心配して声をかけたのだという空井に向かって、曖昧な顔で微笑んだ。ずっと表に立っていたからだろう。ヒールの足が痛むのか少し足を庇うように歩いてくる。
「本当に、何もないですね。この辺」
空井の近くまで歩いてきた女性は、肩にかけた鞄をかけなおす。
彼女が振り返った先は、松島基地の正門からブルーの格納庫がある先の方、海に向かって向いていた。
「……このあたりに何か縁があるんですか?」
その話しぶりに察するところがあった空井がそう尋ねると女性の表情が少しだけ変わった。目を細めて、空を見上げる。
「私……、子供の頃。45号線の矢本駅少し手前のあたりに昔のブルーインパルスがあるじゃないですか。あれ、大好きだったんです。親戚の家に夏休みやお正月とか、そういう時期に親が帰省するのに一緒に行くんですけど、それが憂鬱で仕方なくて。でもこのあたりに来ると、運がいいとブルーインパルスが飛んでるときにぶつかったり、それが見られなくても、あそこの道路を通るのが楽しみでした」
「そうだったんですね。じゃあ、ご親戚はこのあたりに?」
「この先の矢本にもありましたし、石巻にも、そのもっと先。女川のあたりにも……。山道に入ると、車に酔ってしまって、いつも行くのは大嫌いで。でも、そんな子供を家に置いたままで丸一日も家を空けられないじゃないですか。だから、連れて行かれるのもわかっていて……」
「……そうですか」
その先を言わない女性の様子に、空井は頷いただけだった。
安易には触れられないことをよくわかっている。
「聞かないんですね。なんて呼べばいいのかわからないので……、自衛官さんはいつからこちらにいらっしゃる方なんですか?もともと、東北の方ですか?」
「自分は以前は関東にいました」
いつから、とは言えずにそれだけを答えると、そこにはあえて触れずに女性は頷いた。それから、ぱっと破顔して見せる。
「誤解されていたらすみません。私は、今は都内に住んでいて、あの時は血が凍る思いでしたけど、おかげさまで両親は無事で、しばらくは仙台にいましたけど、今度、私のところに引っ越すんです」
それを聞いて、いくらか空井もほっと息をついた。決して、だからといって喜んでいいわけではなかったが、それでも、と言うところだ。
砂利の多い場所からゆっくりと歩いてきた彼女は、アスファルトの上で、とんとん、とヒールの踵を鳴らした。
「今日は、両親の代わりに色々始末しに来たんです。流された親戚の法事とかは終りましたし、こっちにはもう親戚もほとんど残ってないし」
ただ、と言って基地の方へと視線を向けた。新しくなったブルーのハンガーが遠くに見えている。
「母の生まれたところは、もう廃村になっていて何も残ってないんです。今度、両親もこちらは離れますし、母も見たくないと言って一度も見ていないので、最後に見ておこうと思って来た帰りなんです」
くるっと振り返った彼女は、少し残念だと言って笑った。今日はブルーが飛んでいなかったからだという。
「待っていたら飛ぶかなって期待したんですけど、そんなに甘くないですね。最後に見たかったな……」
よほど、好きな人でなければ、わざわざ航空祭に足を運ぶことなどないだろう。都内に住んでいるなら足を延ばせたとしても入間がせいぜいで、あそこの人出は例年多い。
そんなことも考えると、彼女が最後だというのもわからなくはない。
そう思うと何とも言えなくなる。
「すみません。別に見せて欲しいとかそういうことじゃないんです。私、そんなに詳しいわけでもないし。ただ、残念だなってだけで……。それにもうそろそろ戻らないといけないんですけど」
「……今日、東京まで戻られるんですか?」
「ええ。夕方の新幹線で」
ちらりと空井が腕時計を見ると、もう間もなく定時になる。
黙っていられなくなって、空井は一歩彼女の方へと進み出た。
「あの、もしよかったら……」
東松島か、仙台の駅まで送ると空井は申し出た。それにどんな意味があるわけでもなく、ただ放っておけない気がしたのだ。ずっとこんなところに立っていて、足もさぞかし痛むだろう。わざわざ見に来たからと言って、何があるわけでもないこともわかっていて、基地の周りにずっと立っていた彼女を放っておけなかったのだ。
「そんなわけには……。まだお仕事中でしょうし」
「いえ。足も痛むでしょう?それに、自分も今日は定時で上がったら東京に向かうので構いませんよ」
そうするにはもう少し待っていてもらわなければならなくなるが、移動ははるかに楽になるだろう。帰りの足が楽なように、もともと駅までは車で行って、格安の駐車場に置くつもりだったのだ。
「いえ、本当に、お仕事か何かでしょう?そんなわけには」
「違うんです。自分、婚約者が東京にいまして、彼女ののところに向かうんで全然かまいませんよ」
それなら、とようやく頷いた彼女を少しだけ門の傍に待たせると一度、空井は中へと戻る。
山本に事情を話して、許可を取り付けると空井は制服を着替えて家を出た時に用意していた荷物を持って車に向かう。駐車場から車を持ってくると、、門を出たところで彼女を車に乗せた。
「ブーケとブートニア」読んだあと、こちらを読みました。
このエピソード、さらっとした説明だけだったので、もっと詳しく知りたいな~と思っていたんです。
こうしてお話として読めて嬉しいです。
ozaima様
こんにちは。
ありがとうございます。
ちょっとたくさんになってきて、並び順が難しい(^-^;
ちょっとうまい方法ないか考えますが、ピクシブで書いていたものにだいぶ加筆修正している者もあるので、
それもまた楽しんでいただければ幸いです。