「ありがとうございます。助かります。自己紹介がまだでしたね。私、月嶋と申します」
助手席に座った女性がシートベルトを締めたのを確認してから、車はゆっくりと滑り出した。ステアに手をかけた状態で、軽く頭を下げた空井が名前を名乗る。
「こちらこそ、失礼しました。自分は空井といいます。月嶋さん、新幹線の時間は何時なんですか?」
「実はまだ押さえてはいないんです。平日の夕方だし、適当にその時間に乗れるやつで、あまり止まらないものに乗ろうかと思っていたんです。空井さんは何時なんですか?」
問いかけられると空井が苦笑いを浮かべた。
月嶋はその運転席の横顔をみて先ほどの制服の時とがらりと違うなと思う。スーツ姿ではひどく若く見える。夕方の車の流れにきれいに乗った空井の運転は、自衛官だという職業柄なのかとても安心していられた。
「気が合いますね。実は自分も、仕事の終り時間が読めないので、駅について一番早くついて乗れるやつに乗ろうかと思ってました」
初めて会った女性を車に乗せて、気が合う、など言えば軽い男にしか見えないところだが、空井にはそんな雰囲気はまったくない。
その様子を見ていた月嶋も、くすっと笑いだした。わざわざ、フェンスの外をうろついていた自分を気にかけて声をかけてきたことも、そこから話を聞いて、駅まで送ろうと申し出たことも、何もかもが空井という若い自衛官の人柄なのだろうなと思う。
朗らかに、そして月嶋に気を使わせない間合いで穏やかに空井が話しかける。
「月嶋さんは東京でお仕事されてるんですよね。どんなお仕事されているんですか?あ、答えられない時は無理しなくても構いませんからね。いろんなお仕事があって、守秘義務とか厳しいところもありますから」
話題に振ったものの、空幕にいた頃の経験や、リカの仕事を聞いていると、外部の人間に気軽に話せない場合もあることはよく目にしてきた。だからと言った空井に月嶋と名乗った彼女はふふ、と軽く笑って首を振った。
「お気遣いありがとうございます。機械メーカー勤務なんです。そんな大層な仕事をしているわけじゃないんですけど」
そう言いながら、名刺を鞄から取り出すと信号で止まったタイミングで空井に差し出した。それを受け取ると空井でさえあの、とわかる大手企業の名前がある。一流企業じゃないですか、と思わず言ってしまう。
「会社だけですよ。それより、すみません。自衛隊のお仕事って、正直そんなにわからないんですけど、空井さんのお仕事はどんなことをなさっているか聞いてもいいですか?」
にこりと笑って頷いた空井は、再びアクセルを踏み込んだ。軽いエンジン音に合わせて車が走り出す。
「自分は広報官なんです。以前、関東にいた時は空幕の広報室にいました」
「広報……ですか。それって、あの『きみきみ、自衛隊に入らないか』っていう……」
一昔前によく言われていた勧誘の文句を口にした月嶋に空井が吹き出した。
「そうですよね。そういうイメージありますよね」
「す、すみません。失礼なことを……」
「いえいえ。全然いい方です。……昔は人殺しの道具なんて言われたなぁ」
「は?」
いえ、と言葉を濁した空井が一人でくすくすと笑ってから、広報官の仕事について説明を始めた。興味深そうに耳を傾けてくる姿がリカに似ている。それだからか、説明するのもついつい、力が入ってしまう。
「へぇ……。全然知りませんでした。いろんなお仕事があるんですね」
「普通の会社も同じでしょう?」
「それはそうですけど……。ふふ、おかしいかもしれないですけど、自衛隊にちょっと興味が沸きました」
その言葉を聞いて嬉しそうに空井が笑う。広報として一番嬉しい言葉である。込み合った松島のあたりを抜けると、わざわざ高速を使わなくても市内までの道はもう通いなれている。
窓の外に目を向けた月嶋が、眉間に皺を寄せてぽつりと呟いた。
「やっぱり違いますね……」
「そうですか?随分、この辺りはきれいに」
「ええ」
同意したはずなのに、月嶋の目は何か違うものを見ていた。確かに生まれ育った彼女からすれば、今は済んでいなくてもその違いは大きく違うのだろう。
「きれいになってるところとそうでないところがまだこんなにはっきりしてるんですね。基地の……、基地の向こう側もそうでしたけど、何にも無くなっちゃったところはそのまんまなのに」
「やっぱり違いますか」
「……帰ってくるたびにあちこち違ってたんですけどね」
自嘲気味に吐き出した月嶋は、窓の外をじっと食い入るようにみているので空井は、その邪魔をしないようにしばらく黙って運転に集中していた。
「空井さん、よっぽど彼女さんに早く会いたいんですね」
しばらくして、くるっと向きを変えた月嶋が急に話を振った。それまでの沈黙には触れずに、空井もさらりと応じる。
「ばれましたか。実は月嶋さんをお送りするのはそれもある……なんて冗談ですけど」
冗談だと言いながらも半分以上、冗談には聞こえない惚気を口にした空井がおかしくて、月嶋は今度こそ思いきり笑い出した。
「空井さんって、おかしい!……あ、おかしいっていうのは失礼でしたね。ごめんなさい。でも、面白くて」
「そんなにおかしいですか?」
「はい。会ってすぐの私に彼女のことを惚気るなんてなかなかいないと思います」
こんなことを言われて照れるくらいなら、まだ月嶋にもわかる。だが、空井はひどく嬉しそうに笑って見せたのだ。
「褒められた……んですよね。嬉しいです。自分、本当に彼女のことがとても大事なので、そう言ってもらえると嬉しいです」
本気で喜んでいるらしい空井に、助手席に座っていた月嶋は申し訳ない気がしてくる。
「ここ、すみません。私、後ろに乗ればよかったですね。大事な彼女さんの席でしょう?」
「ああっ!それは、全然、大丈夫です。仲間も乗せたりしてますんで」
「彼女のための助手席ってことは否定しないんですね。もう……空井さん、面白すぎます。なんだか、そんなに愛されてる彼女さんて素敵な方なんでしょうね……」
うっかり地雷発言だとは思わずにそう呟いた月嶋は、赤信号で停止した空井はきらきらと目を輝かせて振り返った。
「そうなんです。すごく可愛くて、きれいでとっても素敵な人なんです。自分にはもったいないくらいの人なんですよ」
さすがにそこまで来ると、笑いをこらえるつもりなど無くなって、月嶋はけらけらと明るく笑う。
基地ではまだ、からかいのまとになっているうえに、惚気たくてもそれが倍になって冷やかしとからかいになってくればしたくてもできない。相手が会ったばかりの女性なら好きなだけ惚気ることができるとばかりに空井の惚気は止まる気配がない。
もちろん、彼女がいるということで月嶋に不要な気遣いをさせないという意味合いもあったが、話し出せばそれよりも惚気たい気持ちの方が勝った。
「東京にいらっしゃるのはお仕事の都合ですか?」
「ええ。テレビ局に勤めているので」
「え、じゃあ、アナウンサーさんとかそういうお仕事?」
「いえいえ、製作のほうのディレクターなので表に出るわけじゃないんですけどね。すごく仕事もバリバリこなしてて、それなのにすごく気遣いができて、可愛くてもうほんと、かっこいいんです!」
気圧されるくらいの勢いでそう言われると、苦笑いを浮かべるしかなくなる。月嶋がふと、気になることを問いかけた。
「離れていらっしゃって、淋しくないんですか?そんなにラブラブなのに……」
「淋しい想いをさせてるとは思いますよ。傍にいてほしいときにいてあげることもできないし。でも、空は繋がっているので」
助手席をちらりと振り返った目はまっすぐで、きっと、空井と彼女は愛情と信頼でつながっているんだろうなぁ、と思えた。だが、憧れと、少しの苛立ちを感じた月嶋の感情をどう説明すればいいのだろうか。
月嶋の今住んでいる場所とこの場所との差と、幸せそうな空井の様子と。
「自分、あの震災の日、たまたま松島基地に仕事で来ていたんです」
「えっ」
そんな感情を感じ取ったのか、いたたまれないと思った瞬間、空井がぽん、と口にした言葉に驚いて月嶋は顔を上げた。