フロアに戻ったリカは、背後から追いついてきた阿久津に話しかけられた。
「稲葉」
「あ……。さっきは……」
ありがとうございます、と小さく呟いたリカに阿久津はいつもの猫背にポケットに手を入れた姿勢でさらりと追い越した。
「構わん。ほかに言いようもないだろう」
「はい」
「旦那には話したのか?」
まさか。首を振ったリカに、阿久津は頷いた。
阿久津と話をした時に、その話は済んでいる。自分の気持ちが決まるまでは、誰にも話さないと決めていた。
「もう少し……。もう少し時間をください」
「時間はまだある。よく考えろ」
「はい」
もう一度頭を下げたリカを置いて阿久津は、フロアを移動して部長室に入っていった。
自席に座ったリカは、パソコンを開いて、午後からのスケジュールを確認する。打ち合わせが三本続いていて、夕方の帝都イブニングの時間だけはかろうじて、打ち合わせが入っていない。
「稲葉さん。今日のQシートチェックお願いしますね」
「あ、うん」
机の上に置かれていたシートには気付いていたが、珠輝が駄目押しに声をかけてくる。かさ、と今日の資料らしき紙をめくりながらリカの後ろを通って、大きなテーブルの方へと移動していく。
すぐにQシートのチェックをしたリカは、付箋に気になるポイントを書いて2つほど張り付けた後、珠輝に戻した。
「大したことないけど、こことここ。直しがきくなら直して」
「わかりました。……最近、稲葉さんのチェック、阿久津さんに似てきましたね」
「そんなことない。いいから進めて。私は打ち合わせに出てぎりぎりに戻るか、間に合わなかったらそのまま行くから」
「はあい」
頷いた珠輝の手にQシートを戻して、ノートPCと手帳を抱えると、会議室に向かう。
まっすぐな廊下と、会議室への曲がり角。
どこかで、いつも必ず。
どんな瞬間でも人は判断して生きていく。その取捨選択を誰かのせいにすることはできない。
昼間のことを思いだしていたリカは、ソファの前のテーブルに置いたままのノートパソコンを開く。あの頃使っていたものとは違う、新しいPCには、大祐と出会った後に調べまくっていた時のブックマークが残っていた。
そのいくつかはもう、見られなくなっていたがいくつ目かのクリックで最近の航空祭で撮られたらしいブルーインパルスの動画が開いた。
真っ青な空をに描かれる軌跡は、大祐の持っているDVDでも何度もみたし、実際の空もみた。
―― 私は……。私の夢は……
悲しくないのに、涙が滲んでくる。
決して悲しいわけではない。それでもあの日、あの頃の出会いからどれだけたくさんのことがあって、今があるんだろう。
大好きな人と共にいるということと、私の夢と。
誰かに話して、決められるほど幼い夢ではなく、今は大人としてこれからも歩んでいくための夢であり、進むべき道だ。
動画が止まって、ぱたん、とPCを閉じたリカは、立ち上がってベッドに横になる。本当は、どうしたいかなんてもうとっくに決まっていたのかもしれない。
選択する機会は、これからもたくさんあって、今が最後ではないかもしれないが、今のリカにとっては大きな決断になる。
眠って、起きて。
目が覚めたら。
朝早く、出社したリカは、阿久津が来るのを待って部長室のドアを叩いた。
「おはようございます」
「おはよう。どうした」
「はい。朝早くから申し訳ありません」
頭を下げたリカの顔を見て、阿久津はジャケットをハンガーにかけていた手が止まった。
「……その顔は、決めたのか」
「はい。決めました」
「旦那にもまだか」
―― 私の幸せは、私が決めます
あの時にそう言ったのはリカだ。
頷いた後、心を決めたリカは阿久津に報告をすると頭を下げて部長室を出た。
フロアに戻ると、片っ端から仕事をこなしていく。昼過ぎにアポを入れたリカは、直帰にして局を出る。アポを取った時、相手が意味深な話し方をしているなと思っていたから薄々、予想はついた。
久しぶりの市ヶ谷、空幕広報室を訪ねたリカを比嘉が迎えてくれた。
「仕事ではお久しぶりです。稲葉さん。お仕事は稲葉さんでいいんですよね?」
「はい。稲葉で。お仕事ではお久しぶりです」
「こうしてまた稲葉さんがいらっしゃるのはなんだか懐かしくて嬉しいです。もちろん、今の担当の方もいい方なんですけど」
今の空幕広報室の担当は梶原という男性で、担当ではあるが、はっきりと興味がないことが態度に出ていて、リカが担当していた頃のような企画を持ち込んだりするようなこともなく、帝都テレビの窓口というだけの存在だった。
「そう言っていただけるのは嬉しいですが、それだけ私も年を取ったみたいで」
「ああ、全然そういうことはありませんよ。稲葉さんは以前にも増してお綺麗ですから。って言っておかないと怒られそうですね」
「そこはそれってことで。今の空幕広報の皆さんはご存じないでしょうし」
いかにもごつい男性がコーヒーをそこに運んでくる。
にこにこというより、リカに興味津々という感じで差し出した。
「あの、帝都テレビの稲葉さんですよね」
「はい。お世話になっております」
そこから先に進まないまま、にこにことリカの顔を見ている後輩を比嘉がやんわりと下がらせる。
「すみません。稲葉さんのことは皆、名前や噂だけを耳にしているのでつい……」
「そうなんですか?」
もう、困ったな、と苦笑いを浮かべたリカをおや、と言う顔で比嘉は首をひねった。