着替えてからリカを手伝うために隣に立つ。
「もう沢山話したいことがあるから、作りながら話すんだけど……」
そう言って、リカはずっと黙っていたんだけど、と話し始めた。
2週間ほど前、阿久津に呼ばれた。
今年度の成果報告と、来季の目標値の設定のために、面談をしていた時のことだ。
「稲葉。お前に話がある」
そう切り出した阿久津は、リカにとっては思いがけない話を始めた。
一つ目は、報道局への復帰である。報道に戻れば、地方局への出向と言うこともよくある。そうすれば、大祐の転勤に近い場所に移動することができるということだ。
「これは、希望通りにに絶対できるとは限らん。だが、何度かに一度は行けるだろう」
ずっと離れ離れより、一緒に暮らせるチャンスがある方がいいに決まっている。
そしてもう一つは、このまま情報編成局にいるが、コンプライアンス部門の兼務と言う話だった。
それを受ければ、地方局などへの出向や移動はなくなるだろう。代わりに、専門家として、今まで以上にマスコミとしての公正な立場を意識して制作にあたらなければならなくなる。
チーフディレクターとしてだけではない見方が求められる立場とどちらかを選べと言われたのだ。
「その少し前にね。青森基地の輸送機が煙が出て緊急着陸したっていうニュースがあったでしょ?」
「あ?ああ……、あれか」
リカとその話をした覚えはなかったが、広報の立場としてもほかの基地の話ではあったが耳にはしている。そして、それをリカが知っていることも不思議ではないが、なぜ今その話が出てくるかわからなかった。
「その時ね。本当はいろいろ情報が錯綜したの」
それはありがちなことで、空幕や基地の広報から的確な情報が出せていないとそういうことがあり得るとも思う。
緊急性の高い情報であればあるほど、正確性を持って伝えたいと思うし、取材する側は1分でも1秒でも早く情報が欲しいと思うはずだ。その間で、いかに早く情報が出せるかは正直難しい。
しかも緊急着陸したのは、共用しているとはいえ、民間機のおりる空港である。
そのあたりの複雑さをある程度は知っている大祐が納得したかなという間をあけて、リカが続けた。
「うちのニュース担当も動いていたんだけど、当然、窓口になってるのはうちの梶原君だったから、そっちにも連絡が来たりして一時は墜落したっていう話もあったのよ」
いつかみたいにね、とリカが言うのは、鷺坂に半分騙されたシミュレーションの時のことだろう。それも今では懐かしい思い出の一つではある。
すわ、速報かとざわめいたのだが、そこでリカが待ったをかけたのだ。
本当に墜落していれば、シミュレーションの時のように、正式な発表があるはずだ。それまで、誤報かもしれない速報を出すよりも正確性を期した方がいい。
当然、局内では特オチさせるのかと反発も多かったが、阿久津はリカを信じて待ったをかけてくれた。
「よっぽど、大祐さんに連絡しようかなって思ったんだけど、それも……ね」
「うん。もし俺にかかわることで何かあれば必ずリカには知らせがいくしね」
ひとまず、その時は空幕広報室から正式な情報がいくらもしないうちに出て、局としても大事にもならず無事に済んだのだが、その時の対応から、上の方でリカに対して一定の評価がでた。
かつての報道での一件よりも、今の仕事ぶりと対応が正しく評価されるようになったことは喜ばしい。
だが、今回の内示はそれだけではないのはリカにもわかる。
「つまりね。プライベートではあるけど、独自の情報ソースを持ってる私を報道に置くか、または、それを生かして、公正な報道ができるようにうまく使うか、どちらかってことだと思うんだ。そりゃそうよね。会社としてはそうなるのもわかるし、いずれにしてもいい方向で認められていることに変わりはないし」
「……そうなのかな。俺にはよくわからないけど」
どちらもリカにとって今よりも大変になるのではないかと言うこと以外、民間企業のことはなかなか理解しづらい部分でもある。
コンロにかけた魚を大祐がひっくり返して、火を弱めている間に、リカが味噌汁を仕上げてしまう。ご飯をよそって、魚が焼きあがるタイミングを合わせながら、困惑気味の大祐を安心させるように微笑んだ。
「まあ、会社としての見方はそういうことなんだけど、私にとっては、夢だった報道に戻れるのか、それとも大祐さんの傍に行くのか、二者択一ってかんじじゃない?私、自分が本当に何がしたくて、どうすればいいのかわからなくなったの」
「だから、ずっと一人で考え込んでた?」
「うん。ごめんね。相談もしないで。相談したら……」
甘えてしまいそうで怖かったの。
大祐にとって、正直に言えば甘えて欲しかったことは確かである。リカが、一人の社会人としてキチンと自分で答えを出したかった気持ちもよくわかる。
「私、大祐さんに責任を押し付けるんじゃなくて、ちゃんと自分でわかりたかったの。今の私の夢はなんだろうとか、私にとって、家族ってなんだろうとか、ちゃんと自分でわかりたかった」
「うん。わかるよ」
それに、リカがどんな答えを出したとしても、大祐にとっては何の問題もない。
働くリカの姿を見て好きになったのだから、今更それにどうこう言うつもりなど、毛頭ないのだ。
「大祐さんの傍にも行きたい。一緒に毎日ご飯食べて、奥さんらしいことして、いろんなところに住んでみたかった」
焼きあがった魚をお皿にあけて、二人で食卓に並べ終ると、リカがぱちんと箸を置いて大祐の方を向いて座りなおした。
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「ごめんなさい。大祐さん」
「え、リカ?なんで?」
「だって、私、大祐さんの傍に行くことより、マスコミで働く者としてどうなりたいかを選んでしまったから」
今のリカなら。
何かに寄らずに公正な目で判断できる。
それならば、かつての自分が犯した過ちを繰り返さないためにも、力を注ぎたい。
「私の我儘なの。報道を、今選ばなかったらきっと、一生、もう報道にはいけないだろうし、情報畑を歩くことになると思うの。転勤や転属もないだろうから、東京からは離れられないし、大祐さんと一緒に暮らすのは、大祐さんが東京勤務か、近辺に配属にならない限りないと思う」
「うん。それは元からわかってたよ?」
「でも、可能性としては今回あったわけで、それを断ってしまったわけだから」
「ちょ、ちょっと待って。ちょっと考える時間を頂戴!」
リカの話についていけなくて、待ったをかけた大祐は、腕を組んで、うーん、と黙り込んでしまった。
こういう時、女性の方が打てば響くように反応できるが男は腹に落ちるまではなかなか時間がかかる。味噌汁のお椀から立ち上る湯気を追いかけながら、リカの言っていることを何度か頭の中で繰り返した大祐は、わかった、と言って顔を上げた。