機嫌よく帰ってきたリカは、時々時計を見ながら手早く着替えや明日の支度を済ませてから携帯を手に取った。
『お帰り』
「ただ今」
『ご機嫌だね。少し飲んでる?』
声の調子ですぐにわかる。離れていても、そのくらいわかる程度にはなってきたつもりで官舎の部屋で待っていた大祐は電話の向こうの気配を感じた。
ひどく弾んだ声は、この時間に帰ってきて、疲れていることよりも何かいいことがあったようにも聞こえる。
「ん、ちょっとね。ご飯食べてくるって送ってたでしょ?それがなんかすごい人数になっちゃって。結局10人くらいだったのかなぁ。2,3人だと思ってたからびっくりしちゃった」
『でも楽しかったんでしょ?よかったね』
「ふふ。まあね」
結婚して、空井リカになった後、リカの結婚のニュースはたちまち、局内だけでなく協力会社にも駆け巡ることになった。結果として、リカにまとわりついていた悪いイメージの大半は払拭され、そのおかげで他部署との連携にもよく声がかかるようになったのだ。
仕事が増えた、とリカはぼやいていたが、どことなく嬉しそうだったのは、リカがこれまで頑張ってきたことが認められてきたからだろう。
『俺としてはあんまり外で飲まないでいてほしいけどね。楽しい食事はいいと思うよ』
「もともと、あんまり外じゃ飲まないもの。たまに飲みすぎるときは藤枝が一緒のときくらいで、大丈夫です」
『だって、昔、りん串では……』
「あ、あれはっ……。柚木さんとも仲良くなる前だったし、意地を張っちゃったからだって何度も説明したじゃないですかっ」
再会して、結婚して。
二人の間にある時間と距離を埋めるようにたくさんのことを話していた。
その中で、時々、大祐がからかうのはリカがかつてりん串で飲みすぎたことをである。離れていても、今なら堂々と心配することができる上に、彼氏どころか今は夫として妻が一人で飲みすぎることがないように、心配するのは当然だろう。
『されたよ?されたからこそ、今だってリカがそんな気分で飲む日がないといいなと思ってるだけだってば』
「絶対、そら……大祐さん、私がまた酔っぱらってるんじゃないかって思ってるんでしょう」
少しだけ拗ねたふりをしたリカは、それでも機嫌がよかったからか、さらりと話を流した。
「それでね」
機嫌のいいリカの話はつぎつぎと進む。少し早口で次々と話すリカの気が済むように相槌を打っていた大祐は、なんだかもやもやする自分を訝しく思っていた。
「聞いてる?そら……大祐さん」
『聞いてるよ。……』
「私、しゃべりすぎだよね。ごめんなさい」
『いや、そうじゃなくて……』
ついうっかりついたため息に、我に返ったリカは慌てて詫びる。
我に帰れば今日は自分の話しかしていない。
「なんか今日は楽しかったからつい、聞いてほしくて」
『うん。わかってる。ただ、さ』
「なに?」
『いつになったら、そら……が無くなるのかなって』
空井さん、と言いかけて大祐さん、と未だに慣れずに言ってしまう。
『僕はちゃんと呼んでるよ?“稲葉さん”?』
「……っ!そのうち、慣れるんですっ!今はちょっと……、慣れてないだけで」
『ふうん?』
「あのあのあの……」
慌てたリカに、くすくすと電話越しに大祐が笑い出した。
全く経験がないわけでもないだろうに、不慣れな反応をするリカが可愛くて笑いをかみ殺す。
『寂しいなぁ。リカは楽しく職場のみんなとご飯食べに行ったりしてるけど、俺は一人リカが帰ってくるのを待って……』
「行く前に連絡したじゃないですかっ!それに、それに、大祐さんに会えるのはまだ先だし!私だって大祐さんと一緒だったらそれが一番いいけどっ!……大祐さん?」
黙り込んだ電話の向こう側が気になって、言葉をきったリカに堪えきれなくなった大祐は、口元を押さえていた手を離した。
『リカさん』
「な、なんですかっ」
『可愛いです』
「……っ!そ、そんっ、何をいきなりっ」
慌てふためくリカがきっと電話の向こうで真っ赤になっているんだろうなと思いながら、自分が照れている姿を見られなくてよかったと思う。
『ははっ、いきなりじゃないです。いつもそう思ってますよ?空井リカさん』
「絶対!からかってるでしょ!!もうっ」
『からかってないって。本当。ちょっとね。リカがあんまり楽しそうだったから悔しかっただけだよ』
笑いながらリカを宥めた後、お休みと言って電話を切った。
「……ま、ちゃんと呼んでくれたからってことで」
大祐さんと一緒だったらそれが一番いいけどっ!
―― あれで自分じゃ素直じゃないって思ってるみたいだけど、めちゃくちゃ素直すぎてこっちが参るよ……
携帯を充電器につないで、ついさっきのもやもやした気分を忘れた大祐は、緩んだ口元を何度も手で押さえながら横になった。
今では笑い話にしかならないが、藤枝と付き合っていると思い込んでいた時は、あんなにも焦れた気分になったものだ。負けず嫌いなことは自覚があるが、自分がそんなに嫉妬深いなんてもちろん思ってはいない。
「あー……。なんであんなに可愛いかな」
ベッドの中でごろごろと、大の男が転がっている姿など見せられたものではないが、見る可能性がある相手は、遠い東京の部屋にいる。
次にリカに会えるのは、再来週だ。
―― 俺、あと何回機嫌のいいリカの声を聞くんだろう
ちりっと胸の奥に掠めた不愉快さは押しやって、会えるまでの日を指折り数えながら目を閉じた。