そろそろ稲葉さんが来る時間なんですかねぇ。
ちらっと隣の席で時計を見る感覚が忙しなくなるのを感じて、ついつい、頬を緩めそうになってしまう。
僕の隣は片山一尉と空井二尉でお二人とも広報の経歴は僕よりも短いですが、幹部なので基本的にはアシスタントに徹するのが僕の役目。
そして既婚者でもありますから、お二人の恋バナのアシストはしてあげたいところですが、なかなか右を向いても左を向いても前途多難な様子。
廊下の向こうからこの建物の中ではあまり耳に入らないヒールの音が聞こえてくると、空井二尉が即座に反応するのを見なくてもわかるようになってきたところだ。
「こんにちは」
「稲葉さん!こんにちは。お待ちしていました」
がたっと、派手な音をさせて立ち上がっておいて、お客様向けにきちんと頭を下げた空井二尉が応接に稲葉さんを連れて行く。二人が僕の背後を通った後に立ち上がると、コーヒーを入れる。
「どうぞ」
「ありがとうございます。比嘉さん、後で少しお時間よろしいですか?」
「僕ですか?なんでしょう」
二人の前にコーヒーを差し出したところで、稲葉さんから素敵な笑顔を向けられてしまって、視界の隅で一気に顔が曇った空井二尉に申し訳ない、と片手を上げたくなる。
ご本人は全くそんなつもりなどないのだから、にこにこと笑顔いっぱいで話しかけてくれた。
「比嘉さんの奥様、日本酒を作ってらっしゃるって以前教えてくださったじゃないですか。よろしければ今度ご紹介いただけませんか?」
「ああ。それは構いませんよ。むしろありがたいくらいですが……。どうされたんですか?」
「最近って、お酒は飲むだけじゃなくて女性には、お風呂に入れたり、洗顔に使ったりする人もいるってことで、飲んでもおいしい、色々使える日本酒特集って言うのを今度やることになったんです」
ひらりと書類の中から企画書を見せてくれた。
確かに、限定生産でうまい酒もあるけれど、値段は安くてもうまい酒は多い。そして、女性にとって、美容にもいいなら特集としても面白いだろう。
「へぇ、面白そうですね。いつ頃がよろしいですか?」
「ごめんなさい。なるべくなら早い方がいいんです」
両手を合わせて拝むように見上げてくる稲葉さんは空井二尉でなくても、確かに可愛いなと思う。ひところに比べてガツガツがなりを潜めている分、もともとの素材の良さが出ている感じだ。
うーんと考えるふりで、不安そうに見上げている空井二尉の方へと向き直った。
「空井二尉、今週末はお時間ありますか?」
「え?自分ですか?あ、はい。あいてますけど」
「それじゃあ、僕、なんとか週末、うちの奥さんに話しておきますから、お昼過ぎくらいがいいかな。稲葉さんをお連れしていただけませんか?」
驚いた顔の空井二尉は放っておいて、今度は稲葉さんへと向きを変える。
このくらい、アシストするのは当然というものですよ。稲葉さんのお仕事に協力もできますしね。
「僕は、奥さんと一緒にご案内する準備がありますから。お迎えに行けないので、空井二尉に連れてきてもらってください。週末なら、稲葉さんも調整付きますよね?」
「ええ。こちらこそ助かります。カメラマンの同行が必要な場合は別途調整させていただけますか?」
「もちろん。ひとまずは稲葉さんに取材していただいてからがよろしいかと。時間はお二人で調整してください。こちらに到着するのが昼過ぎだと助かりますので、お昼でも二人で一緒に食べてからきたらどうですか?」
「えっ?!いや、あのっ」
慌てた空井二尉も、ここで一押しすればいいのに、そんな自分がなんで、とか呟いている。
当然、稲葉さんも空井さんには申し訳ないので、と遠慮気味だが、不安そうにちらりと見ているところを見ると、本当は稲葉さんとしては、まんざらでもないと思うのだ。
「うちはちょっと場所がね、僕の家ではなくて、妻の実家の方なので、わかりにくいですし、周りに何もないので来るのはちょっと大変なんですよ。空井二尉、申し訳ないですが、車の方で、ね」
「えぇっ?!比嘉さん?」
「じゃ、そういうことで。お仕事お続けください」
長引かせるとどちらもぐだぐだと言い始めるのがわかっているので、話を切り上げて自分の席に戻ると、後ろで互いに視線を交し合って困っているようだ。
「あの……、空井さん。ご迷惑ですよね」
「あ、いやっ、あの、自分、週末暇ですし、稲葉さんがよければ車を出すくらいなんでもないですよ」
「私も空井さんがいいなら、一人で行くよりも遠地なら……。助かります」
取材なのにすみません、と言いながらもどうやら話がついたらしくて一安心する。
これで少しは進歩があるといいんですけどねぇ。
生温く見守らせていただきますよ。