部屋の中でリカはパソコンから顔を上げた。
「ふう……」
ソファの前のテーブルは、すっかりオフィスになってしまった。厄介なウィルスが蔓延し始めて、大騒ぎになって。
世の中の働き方改革は十分わかっているつもりだったが、まさかテレビ局に勤めている自分がテレワークをすることになるとは思ってもいなかった。
今はほとんどの社員がテレワーク状態で、出演しているアナウンサーたちも局にいないことがある。
それでもまだ彼らの方が局にいることは多いかもしれない。
リカのようなディレクターたち裏方は極力局に行かず、ほとんどがワンオペになっていた。
……育児以外でワンオペなんて言うと思ってもいなかったけど……
お互いに、まだいいのではと子供がいなかったことが幸いなのかわからないが、とにもかくにも局に行くことは週の何回かで他は家で仕事をする日々が続いている。ロケがあっても一人で取材して、一人で編集して一人でデータを送る。
今も、ほかのディレクターたちから送られてきた映像をチェックし終わって、データを送ったところだ。
以前、、阿久津がチェックをしていた立場に今はリカがなっている。阿久津は現場からマネージメントにシフトしており、現場のリーダーとしてリカは動いていた。
立ち上がってキッチンでコーヒーを入れる。
家で飲むコーヒーが増えていても一人で過ごす部屋はどこかさみしい。
「はぁ~……。もう……大祐さーん」
「はーい」
「えっ?!」
いないはずの人の声が聞こえてきてリカは飛び上がった。
ひょこっと玄関から入ったところで、ひらひらとマスク姿の大祐が手を振っている。
「ただいま。リカさん」
「えっ?早くない?ていうか、なんで?」
「うん、ひとまずシャワーしてくるから待ってて」
鞄はどうやら廊下に置いてきたらしく、そのまま洗面所に入っていった大祐をあっけにとられて見ていたリカは、我に返って大祐の着替えを用意する。
リカの仕事が在宅になり始めた頃、大祐も外に出ていくことが多くなった。仕事柄出ていくときに、なかなか帰ってこられなくなることも多い。隊に所属していなくても、どうしてもいつ、どこに行くのかなど言えないことが多い。
「しばらく、こんな状態だから出たり入ったりすることが多くなるけど、心配しないで」
「わかった。連絡はしてもいいの?メッセージならいい?」
「うん。いつも通りでいいよ。出られない時は出られないし」
結婚してからもこうして家にいない日があるときは、事前に話をする。必ず口に出して共有するのはお互いの仕事柄もあるだろう。
そうして、しばらく家に帰ってこなかった大祐が久しぶりに帰ってきたのが今というわけだ。
相変わらず風呂は早いが今までと違うのは、それでも念入りに洗うため少しは人並程度に時間がかかるようになったことだろうか。
「あ、リカさん。着替えありがとう。仕事まだだよね?」
「うん、ごめん。まだかかる」
「いいよいいよ。ええと、話はしてても大丈夫?」
「うん。ダメだったらいう」
リカの返事を聞きながら大祐はキッチンに立って冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。
これもまた新しい日常である。お互いに共有するものをできる限り減らす。
些細な事だといわれそうだが、リスクは極力減らしたいのだ。
「どう?リカの方は」
「んー。だいぶ慣れてきたけどね」
「そっか。今はみんなそうなんだろうなぁ」
一口で半分近くまで水を飲んだ大祐はリカの斜め後ろに立つ。
「一時はちゃんと減ったけど、やっぱり最近増えてるよねぇ、感染しちゃった人」
「ん。なんとも言えないけどね……。やっぱり取り上げるときは難しいよ。だって、誰もわからないんだもの」
今世の中で広がっている病は誰もが知らなかった。症状も人によって違う。そしてかかった後にどうなって、治った後も何か影響があるのか。
誰も知らないから手当て、という言葉の通り、状況に合わせてできる限りのことをするしかできない。
それが今日本だけでなく世界中で起きていることだからだ。
「俺たちもかわんないよ。やれることをやる。それだけだよね」
「そうね。私たちだけじゃなくてみんながそうだよね……。でもね!」
急に勢い込んだリカが何かを言いかけたところに連絡が入ったらしい。慌ててイヤホンとマイクを手に取る。そこからしばらくはカメラとマイクに入らないように大祐は久しぶりの家の中で洗濯をしたり、片付けをしたりと忙しくしていたようだ。
そのあと、パソコンを閉じたリカ立ち上がると、ひょい、と大祐が姿を見せた。
「終わった?」
「うん。今日の仕事は終わり」
「お疲れ様」
時計を見れば19時を回っていて、顔を見合わせて小さく笑った。
結局、形は変われど、相変わらずの二人である。
「大祐さんが帰ってくるって思ってなかったから今日は何も用意してないの」
「今日は?」
「……今日もですけどっ」
くくっと喉の奥で笑った大祐が大きく腕を広げて上を向きながらリカをぎゅっと抱きしめてすぐ離れる。
「大祐さん!」
「ちょっとぐらいは勘弁して?リカが不足しすぎてちゃんとわかってるけど」
諸手を挙げた大祐はキッチンに立って、あちこち覗き込む。
大祐と一緒に同じころに食事をできていたのはほんの一時期だけで、ほとんど一緒に暮らしていない。
一人でいるときのリカの食生活がひどいのは大祐もよくわかっていた。
「俺が作るから座ってて?この冷蔵庫だと、軽いものになっちゃうけど……。焼きおにぎりと何か作るよ」
鼻歌を歌いながら手早く冷蔵庫の中からあれこれ取り出している大祐をカウンター越しに眺めたリカは、まじまじとその姿を眺めている。
「なに?」
「いーえ。私も大祐さん不足なので眺めてます」
「うわ。やめてよ、リカさんにそういわれると照れる」
「なにそれ?自分は普通にそういう事言うくせに」
薄ら頬を赤くしてリカから視線をそらしているが、大祐に会ったのは約一か月ぶりになるかもしれない。
メッセージアプリを使ってやり取りしたり電話をしたりはよくあるが、動いているその人を見るのはやはり違う。
ただ、動いてる大祐を見ているだけでなんだかぼんやりとしてしまった。
「……なんか、ね。こうしていられるのっていいなぁって改めて思うの」
「そうだね……。俺たちの場合は、こういう事にならなくてもまあ、あんまりかわんないけどね?」
「そういえば……、そうね」
「でしょ?」
相変わらずの笑顔だが、そのあごには無精ひげがちらほら見える。
「でも、今度の戦いは……」
長い戦いになるかもしれない。
口に出さなかった続きをリカも同じように感じている。
綺麗な三角に握ったおにぎりが皿に並ぶ。半分はフライパンの上で焼かれて、しょうゆの焦げたにおいがする。
そうだね。
そう言いかけて、黙ってリカはお茶を入れた。
「たべようか」
「うん。好きよ。おにぎり」
「それはよかった」
二人で並んでカウンターの上でおにぎりを頬張る。
三つずつ食べて、お茶を飲んで。
そして、大祐は立ち上がった。
「それでね」
「うん?」
「ごめん」
そういった、大祐の視線を追ったリカは、いつの間にか廊下に続くドアの前に置かれた大きなバッグを見つけた。
「一緒にご飯、食べられてよかった」
「リカさん……」
「まだまだテレワークの日も多いから、日中でもメッセージくれたらすぐ見られる」
また私たちは、できることをして、日々を過ごしていく。
「……うん。連絡する」
「ん!」
お互いに笑みを浮かべてから、大祐ががクシャっと顔をゆがめた。
そして思いきりリカを抱きしめる。
「あーっ、もう!リカと一緒に出掛けたい!いちゃいちゃしたい!リカと一緒にだらだらしたい!いちゃいちゃしたい!!」
「……大祐さん、二回同じこと言った」
「大事なことは二回いうものだから」
低いリカの呟きに当たり前だと言い返した大祐はぱっと離れると大股でバッグのところに行って、軽々と持ち上げた。
「じゃ、行ってきます」
「……玄関まで送る」
「だめ。リカさんは洗い物」
「えっ?そんな意地悪?!」
だって。玄関まで見送られたらその場に足止めされてまた動けなくなりそうで。
一緒にいたい。
ひらりと手を振った大祐は笑いながら部屋から出ていった。
腰に手を当てて、ふくれっ面のリカはしぶしぶ、キッチンに立つ。
そして、次こそ、食材を買い込んでおこうと心に決めた。