リカと大祐が結婚したことは、互いの周囲ではかなり広まっていた。
本人たちのいい悪いは別にして、それはそれで、時には冷やかしやからかいの的になったりもしたが、おおむね平和な日々が続いていた。
「ねぇ、大祐さん」
『ん?』
「あのね?ちょっと聞いてもいい?」
いいよ、と軽く返ってきた声にリカが思いがけないことを口にした。
「大祐さんて、風俗とか行ったことある?」
「!!」
別に変な意味じゃないからとわざわざ前置きをされてはいたが、深い意味はないと思っていた大祐は、思わず携帯を取り落しそうになった。
『なななな、なんでそんなことっ』
「ん。ちょっとそんな話になって……」
どんな話だとそちらの方が気になったが、今は、答えておかないと変な誤解を生みたくなかった。
『あ、あの、僕らはその男が多いからそういう話もあるにはあるけど……』
「けど?」
『……あの……風俗って言ってもものすごーく範囲が広い気がするんだけど』
「はい」
―― 正直、何の拷問だろう。何かリカを怒らせるようなことでもしただろうか
これだけ一途に想って一緒になった妻に過去を追求される図なんてドラマでも今どきはあまり見ないほどベタな光景だろう。それが携帯越しであろうがなかろうが。
『……どうしても答えなきゃだめ?』
思わずそう口にしてから、これじゃあ、自白してるのも一緒だと思い直して頭を抱えた。
平日のもう日が変わろうとしている時間に、どうして自分は一人部屋にいて、こんな変な汗をかいているんだろうとさえ思う。
「大祐さん……。それってほとんど……」
行きましたって言ってるようなもんじゃないとリカの方も呆れそうになる。さすがに年も年だ。三十路近くなれば、そんな初心な小娘でもないと自分では思っていて、過去に対してどうこう言うつもりはなかった。
『ああ、もう!……わかったよ。先輩に連れていかれるとかはよくあるんだよ。断るに断れない時もあるし。風俗っていってもピンキリだから、皆それぞれ違うだろうけど、異動になって初めのうちは早く馴染めるようにってのもあるし』
「じゃあ、行ったことあるんだ」
ふうん、と言われてしまうと、もうどうしようもない。変な誤解を受けるより自爆した方がましな気がした。
「それって、結構行くもの?」
『場所にもよるし、人にもよるって。まだ下士官だったらお金もないし、そんなに頻繁にいけないんじゃないかな。せいぜい、キャバクラとかにたまに行くとか……』
一度腹を決めてしまえば、存外さらっと言ってしまえるわけだが、それでもうっかり失言だったと気づいた時にはもう遅かった。
「キャバクラって……安いって、その上があるんだ」
『あ、いや、それは、ほら、行く人もいればいろいろだから』
「でも金額までは、行かなきゃわかんないんじゃない?」
再び嫌な汗が出てきた大祐は、はぁ……とため息をついた。
『あのね、リカさん』
リカと呼ぶようになって久しぶりにさんづけで呼ばれたリカは、自分が突っ込み過ぎたことには気づいたが、それでも気丈にはい、と答えた。
『男は、あんまり女性にこういう話したがらないものだから、俺もあんまりしたくない。でも、嘘をつくのも嫌だから答えるけど。正直に言えば、リカに出会う前は何をしていいかわからない頃だったから、パチンコとかもしたし、そういう場所に行ったこともある。その前は、先輩たちとワイワイ騒ぎながらキャバクラとか女の子のいるお店に行くとかあったけど、リカに出会ってからは、一切ないから』
一息に、そこまで言い切って、ふう、ともう一度ため息をつくと、まくしたてた大祐の話を聞いていたリカが神妙に口を開いた。
「わかりました。変なこときいてごめんなさい。ありがとう」
『いや。いいけど……。あまりこういうことって言うもんじゃないし、女の人だって聞きたくないんじゃないの?』
「……それは、まあ……。でも……」
『でも、なに?』
今度は立場が入れ替わって、大祐が問い詰める格好になる。
そもそも、なんでこんな話になったのかを知りたかった。
「ちょっと、そういう話になって……。それで、今私の身近でそういうこと聞ける相手って、大祐さんか藤枝くらいだけど、藤枝はそもそも女の子に困ってないから行く必要がない、っていうし」
『藤枝さんにも聞いたの?!』
「う、うん。だって、別に藤枝は私の中で男として見てないっていうか、そりゃ男ではあるけど異性って感じじゃないし」
そういうことはいくらリカがそう思っていてもね……、と大祐が懸命に言い出したことで、話はそれてしまった。
結局、そのまま電話を切る時間になって、話を聞いたリカも別にだからと言って今さらどうも思わない、と聞けば大祐も一安心である。
あまり話したくない話題であることは伝わったらしいことにもほっとしたのもあって、大祐は結局、なぜそんな話になったのか、リカが何を思ってそんな話を聞いたのか、聞き出せなかったことに後になって気づくことになる。
ただ、その晩は、深くまで追求されずに済んだと思っていたのだ。
電話を切ってから大きなため息とともに、リカはソファを背にした姿勢で抱えた膝の上に頭を乗せた。
―― やっぱり聞かなきゃよかった!!
平静を装ったものの、実はそのダメージはじわじわ来るものだ。
電話を切ってから、風俗も色々あるって言ってたなと思ってしまう。確かにいろいろあるのだろう。女のリカには、想像もできないにしても。業界で働いている知人がいるわけでもなく、詳しいわけでもないリカにとっては想像の中でじたばたする以外、どうしようもないこともわかっているはずだった。
聞かなきゃよかった、という言葉が頭の中をぐるぐると渦巻く。
ずっと彼女がいないと言っていただけに、男ならそういう場所に行くこともあるのだろう。もちろん、過去のことということもわかっている。
わかっていても、こんなに叩きのめされたように落ち込むとは思っていなかった。
大祐からしたら、自分はどう思われているんだろうと思うと、ますます落ち込んでいく。それほど経験のなかったリカにとって、上手い下手などわからなかったが大祐が男の顔になった時には、普段とは全く違っていることだけは確かだった。
自分が大祐を満たせていないのではないかということと、大祐がその手の店に足を向けたことがあるということ。
その二つはどっぷりとリカを落ち込ませた。
一人、部屋の中で唸りながら、結局何も解決になっていないことにますます頭を抱えてしまう。
「もぉぉぉっ!」
ばすん、とクッションに八つ当たりしたリカは、何とも言えなくなってソファに這い上るとそのまま横になった。