大祐は、車を止めてリカのマンションに向かって歩く。リカと再会して零日で結婚して、それから一度、東京に来た後、大祐の元にリカが来て。
電話ではたくさん話しているが、結婚してからこれで会うのは三回目である。
―― うわ……、緊張するっ
浮かれているというほうが正しいのだが、リカのマンションにこうして泊りに来るのは二度目である。そして、ひと月ぶりに会えると思えば、部屋に向かう足もどんどん速くなるというものだ。
本当はもっと早く着くはずだったが、リカとの待ち合わせがうまくできないと思い、先に帰って待っていてくれるように伝えていた。
マンションの一階で部屋番号を押そうとして、途中で手を止める。ポケットに手を入れてキーホルダーについた自分の部屋の鍵と一緒につけていた鍵を取り出した。オートロックを開けるのさえ口元がにやける。
部屋の前まで来てから息を吸い込んだ。
手の中の鍵を使おうか、どうしようか迷ったあげく、インターフォンを押した。
勢いよく玄関が開いてリカが姿を見せた。
「……っ!」
「うわっ……!あの」
「遅いから!」
怒ったような顔で大祐を出迎えたリカをみてゆっくりと笑い出した。
「ごめん。遅くなりました」
「違う!」
噛みつくように言い返したリカは、むくれた顔のままで口を開いた。
「……ただいまでしょう?」
ふっと笑った大祐は片腕を伸ばしてリカを引き寄せた。
サンダルの足元がよろけたリカを抱きとめて実感する。
「……ごめん。ただいま」
「おかえりなさい……」
腕に抱きしめると離せなくなる。ぱたぱたと背中を叩かれて、我に返った。
「空井さん、空井さん!あの、離してください。部屋に入って」
「あ。……ああ」
ドアを開けたままの玄関先で何をやっているのかと我ながら突っ込んでしまう。苦笑いよりも、気が抜けたように腕を解いた大祐は、どこか戸惑ったリカの手に引かれて部屋に入った。
部屋の中は、先に帰っていたリカがそこにいたとわかるくらい、その匂いに部屋の中を見回してしまう。
「そら、……大祐さん、どうかしました?疲れましたよね。荷物置いて休んでください」
「ああ……。いや、二回目なんですけど、初めてみたいな」
「それは……。だって、空井さん。それはずるいです」
出迎えた時と同じように頬を膨らませたリカがキッチンからカップを運んできた。
振り返った大祐の目の前を横切ってテーブルにカップを置く。
「……私ばっかり松島に行ってるみたいじゃないですか」
「あ、すいません。なんか……」
拗ねた顔もひどく可愛く思えて、ソファの傍にバッグを置いて、ソファに腰を下ろしてその隣を軽くたたいた。
「座ってください。リカさん」
むっとしていても素直にリカが大祐の隣に座ると、苦笑いを浮かべた大祐がそっとリカの手に手を重ねた。
「少しぶりですね。会えて嬉しくて、少し……、いや、違うな」
くしゃりと頭に手をやった大祐は、リカの顔を見る。
「すごく嬉しくて。毎日話してるけど、やっぱり顔を見て、すぐそばで声を聞けると思ったら嬉しくて、舞い上がっちゃいました」
ゆっくり目を見開いたリカの顔がほんのりと赤くなる。
「ちょっとやり直していいですか?」
「……はい」
背もたれに片手を置いた大祐は、もう片方の腕でリカを抱きしめた。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
お互いの耳の傍で、声が聞こえる。
お互いの、体温が伝わる。
「――……っ」
片腕で抱き寄せて腕の中におさまるほど華奢な肩が、びくっと震えた。
「……やっぱり、だめだ」
小さく呟いた大祐が腕を解いた。
「すいません……」
口元を押さえて背もたれに向かって顔を伏せる。急に顔を隠してしまった大祐に、リカは戸惑ってその顔を覗き込んだ。
「あの……」
「すいません……。あの、なんか。急に変なんですけど……、すごく……」
愛おしくて。
舞い上がっている自分が抑えられそうにない気がして。
抱きしめたい。
触れたい。
声を聞きたい。
顔を。
笑顔を。
怒った顔を。
拗ねた顔を。
「……大祐、さん?」
「なんか……、全部がいっぺんに……」
少しだけ、大祐より冷たい柔らかい手が口元の手に重なった。
「……私も。会えて、嬉しい。毎日、話してたのに、やっぱりなんだか全然足りないです」
「……ごめん」
「謝らないで」
―― うん。好きすぎて
ソファの背もたれに寄りかかるようにして顔を伏せていた大祐を、今度はそっとリカが抱きしめる。
「こうして、時間って積み上げていくんですね、夫婦って」
「……っ」
跳ねのけるようにして驚いた顔のリカの首の後ろに手を回して引き寄せる。
勢いに任せて、歯がぶつかった気がした。
その後は、よく、覚えていない。
まだ薄暗い部屋の中で、ぱち、とリカは目を覚ました。
初めは目を開けても今がいつで、どうしたのか、ぽっかりと記憶がない。
ぼーっとしていると、もぞ、と動く手にぱちっとスイッチが入った。
―― あっ……
体の重さと、じんわりとした不快さにリカはそっと、腕を外してベッドから滑り降りた。
身に着けるものをと思ったが、きちんと畳まれてベッド脇に重ねられている。顔をしかめたリカは、手を伸ばしてシャツとその下に重ねられていた下着ごと掴んでバスルームに向かった。
リカは覚えていないが、どうやらリカが意識をなくすようにして落ちた後に、一人シャワーを浴びて部屋を片付けたらしい。
部屋の隅に置いてある大祐の荷物が開いてあった。
バスルームで少し温度を高くしたシャワーを出すと、足元からずっしりと重たさが解けるようだ。
―― 普段、使わない筋肉がこんなにあるなんて……
ぎし、と体中が軋むような気がする。
大きく息を吐いて、頭からお湯を流しているうちに、鈍い痛みを感じた。
予定より早いなと思いながら、それも仕方ない気がして、早々にバスルームから出る。
―― 思い出したら顔から火が出そうだわ……
どのくらい時間が過ぎたのかもよくわからなかったし、何度抱き合って、どこで落ちたのかも覚えていない。
着替えを終えて、部屋のソファに倒れこむ。
元パイロットの体力を思い知らされたというべきか。
初めは、お互いに無我夢中で、勢いのまま結婚して、二度目に会ったときは滅茶苦茶に甘やかされて。
「……眠い……」
何度か、起きて、うとうとしてまた起こされてを繰り返したから起きた気がしない。
ソファの上からベッドのほうを見ると、ベッドに沈んだ主はどうやら深く眠っているらしい。数えるほどしか一緒にいないのに、それでもちょっと珍しいなと思う。
大祐は、どこででも眠れると自分でも言っていたが、それ以上に、ほんの少しの物音や気配でもすぐ目を覚ます。習い性なのだといっていたわけで、あの日も、松島に行った日も、リカのほうが寝坊するということになった。
その大祐が今はぐっすりと眠っているようだ。
時々、伸ばした指先がぴくっと揺れるのをぼんやりと眺めてしまう。
眠るのがもったいない気がして、そのままリカは明るくなるまでそれを眺めていた。
そのまま、部屋が明るくなっても目を覚まさない様子を見て、ふっと笑ったリカは、ゆっくりと体を起こしてキッチンに向かう。
これだけは、よく使っているコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
お湯が落ちる音を聞きながら、キッチンからベッドの端にみえる指先を見る。
いつもはほろ苦いコーヒーの香りが甘い。
しばらくして、ポットに落ちたコーヒーをカップに注いで、ソファの前に運ぶと指先だけがぴくっと動いて、目を開いた。
「お」
口を開いて、思った以上にかすれた声に驚いたリカは、小さく咳をしてからもう一度目を開けた大祐に笑って見せた。
「おはようございます」
「……おはよ。起きてたの?」
どこか拗ねたような声にリカは頷いた。
「誰かさんがあんまり寝かせてくれなかったので」
「あっ!」
がばっと起き上がった大祐はTシャツとパンツ姿で起き上がった。
「あのっ」
慌ててベッドから降りた大祐が足にタオルケットを絡ませて、転がるようにソファの傍に立つ。
「ふふっ。大祐さん、へんなの」
「だって、あの。ごめんっ」
「なに?」
「うん。あの……、ごめん。大丈夫?」
荒れ狂う獣のようだった大祐とまるで別人の大祐にリカが笑い出した。
「大丈夫じゃないです。大丈夫じゃないので、今日はハグだけにしてくださいね」
「う……はい」
ごめんなさい、と尻尾を垂れた大祐にリカはコーヒーを差し出した。
「お腹すきましたよね。何か食べましょうか」
平日なら絶対に起きていないはずの、顔を出したばかりの朝日が差しこむ部屋で、リカは寝起きの大祐の手をぎゅっと握った。