寝坊もせず、いつも通りに局に出た藤枝は、さすがに鈍い頭をすっきりさせようと、フロアのコーヒーを手にした。
朝一番ならさすがに淹れたてである。
結局、小さな不幸や、小さな寂しさは日常のどこにでも転がっている。よく晴れた空に、出番を間違えて残ってしまった一欠けらの雲のようだ。
それでもそんな毎日を繰り返していくのが社会人というものなのだろう。
自分に言い聞かせるようにそんなことを思い浮かべた藤枝は、コーヒーを飲み終えるのと同時に、頭から柄にもない考えを押し出した。
「さぁて。今日も頑張りますか」
プラカップを置いて、PCのスケジュールを確認した藤枝はそこから完全に頭を切り替えて、仕事に向かった。
リカの方はほかの仕事もこなしながら、西村の取材にも通っていたらしい。2度ほど、取材に向かったが、その度に何とも言えない指先にできたささくれを気にするような気持ちが残る。
そして、さらに1週間後。
「ナレーション、やる前に先に見る?」
「そうだな。いや、いつも通りやりながらでいい」
ひらりとファイルから取り出されたナレーション原稿を受け取った藤枝の前のテレビには数字が表示されてカウントダウンしていく。
まだ画面の中には、切り取るべき枠やタイムカウントを知らせる撮影時間の表示もまだ消えてはいないが、画面は少し大きめのテレビ液晶だ。
ナレーション原稿には時間がそれぞれ入っていて、その隊務んぐで読み上げることになっている。んじゃ、よろしく、と言って録音ブースに押し込まれた藤枝が、マイクの前に座ると同時にリカも録音ブースの手前にあるモニター前に腰を下ろした。
かちっと録音ブースにつながるマイクのスイッチを押した。
「藤枝。ちょっと抑え目で読んでね」
「お前、そう言うことはこっち、入る前に言えよ!」
「うるさい。騒いでないでやるよ」
かちっと再びリカがマイクのスイッチを切ると、編集を終えた映像をスタートさせた。
たくさんの会社員たちが通勤する風景からスタートした映像は、晴れた空をバックにゆっくりとその人の波をかき分けてフォーカスがあっていく。
硬い表情に味もそっけもない、女性の姿が映りだす。
『あなたは今日の風をどこで感じていますか』
柔らかい抑えた声で藤枝が口を開いた。
『毎日同じように会社に向かう人の中で、一際、厳しく自分に言い聞かせている人がいる。その人の周りを包む風は特に厳しくて吹き飛ばされそうな時もある』
“特別なことはしてません。普通の会社員ですよ”
西村のインタービューが間に挟まって、少しずつ場面が移り変わる。画面を見るよりもこのときは画面の隅にカウントされていく時間に神経が集中する。
『当たり前。当たり前な時間の中に一人一人。自分にしか作り出せない一瞬があって、その時間に人は惹きつけられていく。誰もが特別ではないからこそ、誰もが特別になる。』
カウントするデジタルな数字が目まぐるしく回転して数を重ねていく。その間にはほとんどインタビューされている声は入らない。
『変わらないからこそ、毎日が大事。あしたキラリ』
すう、と押さえた呼吸を吸い込むと、ブースの外からカットの声がかかる。
「オッケー。もう一回だけアタマから」
「はいはいっと」
音の入っていない画面はろくに頭には入ってこない。そういうものだと割り切っているからだ。
リカの作るものを全面的に信用しているというのが大きい。
こほん、と咳をひとつしてから手でサインを送って、流れ出した画面をもとにもう一度語り始めた。
リカは音入れの終わったデータを鞄に入れようとして手を止めた。
思い直して、藤枝のもとへと足を向けた。
「藤枝」
いつもは藤枝の方がリカのところに顔を見せるのがほとんどで、藤枝の席にリカが来たことなどなかった。
きちんと整えられた藤枝のデスクは隙のない藤枝自身と同じに見える。
「なんだよ。びっくり……」
「ちょっといい?時間あるかな」
「ああ。何?」
「あれ、できたから相手方に見せる前に、藤枝に見て欲しいの」
肩を竦めて藤枝は席を立ちあがった。
このフロアに視聴できるスペースはない。リカのいる情報局のフロアに移動すると、空いていた会議室を押さえた。
かしゃん、と開いたトレイにDVDを乗せる。
真っ白な盤面に手書きで書かれたあしたキラリの文字。
先に腰を下ろしている藤枝を振り返ったリカがリモコンの再生ボタンを押した。
ピアノのイントロから始まったBGMに知っている曲だと頭の片隅で思う。
そこに映っていたのは、誰もが当たり前に働いている中でも、真面目でプライドが高く、周りからの批判もそういうこともあると受け止めている人の姿だった。
彼女を批判していた人も、やっかんでいた女性も、秋山も、取材をしたリカや藤枝の顔も、一瞬だが映し出されて一画面の中にたくさんの顔が小さく並べられていく。
気が付けば藤枝のナレーションと交互にリカのナレーションが差し挟まれていた。
「……プロのナレーションに被せるのは、本当は嫌だったんだけど」
「……ああ」
たった数分なのに、じわりと伝わってくる。
「藤枝に似てる。この人」
―― 似てねぇよ。似てるのはお前だ
ずっと、心の中で温めていた人が作り出したからなのか。
じわじわと締め付けられるような想いが沁みだしてくるように胸に広がる。
「これ、映りこんでる画面とか確認は済んでるから本当は、放映まで楽しみにしてもらうところなんだけど」
プラスチックのケースに入った、放送用ではないDVDを差し出した。
会議用の大きなテーブルの上をケースが滑る。
「藤枝が西村さんに見せたいって思うかなって」
映像の止まった画面を見ていた藤枝が片手を額に当てた。
ざわざわと落ち着かない気分に藤枝は、立ち上がってその場でうろうろと歩き回る。
テーブルの上のDVDケースに手を伸ばすと、何度も躊躇を見せた。
「あー……。稲葉」
何かを言おうとして何度も躊躇う藤枝に、リカは黙って待った。
「何?」
「借りとくな?」
リカの顔を見もせずに、ケースを指先で掴んだ藤枝が会議室を出て行った。