「そ・ら・い・さん」
「はい」
「そらいさん」
「はい?」
―― ああ。珍しい。これは甘えてくれてるんだ
ちょん、とシャツの袖を引かれてちょっと間をあけてみる。
そうすると、控えめに薬指と小指のあたりに少し冷たい手を感じた。
夜の明かりのなかで二人の距離はまだぎこちないくらいの空間がある。
「どうしました?稲葉さん」
「……なんでもないです」
真似をしたわけじゃなく、きっとこれは素直じゃないんだろうなぁと思いながら、少しだけ首をひねって振り返った。
「はい?どうしました?」
「なんでもないって言いました」
「でも呼んだでしょう?」
「でもなんでもないって言いました」
手ごわいな、と思いながら指先だけの手を引いてきちんと手をつなぎなおす。表情を見せないから、どう思っているのかわかりにくい。
「稲葉リカさん?」
ぎゅっとつないだ手を握ると、二人の間の距離が少しだけ近づく。指の先だけで繋がっていた距離がほのかに体温が伝わる距離になる。
「……面倒くさいと思ってるでしょう」
「んー?」
軽く手首をひねると腕時計の重みのほうが、リカの手より煩わしい気がして、ちょっと待って、といって一度手を放して腕時計を外す。
スーツのポケットに時計を入れると、一歩離れてしまったリカに近づいてその手を握った。
「うん、これがいい。オフだからね」
「空井さん……」
お酒が入って、少し泣きそうな気配のリカを手を握ることで引き寄せた。
「どうしました?」
「……どうもしないです」
―― あー……。どうしよう
何がリカを悲しくさせているのかわからなくて、内心では目いっぱい慌てていても、今顔に出すことだけは全力で避けたい。
カッコつけたい自分が少しだけ情けないが、大祐にとって2年ぶりに会って、プロポーズして、プロポーズされたようなもので、そんなリカには情けない姿よりも頼りになると思われたい。
そしてこんな風に傍にいると、呆れられそうだけど、煩悩もじわじわと悩ませてくるのも困りものだ。
「あの……、稲葉さん」
「……はい」
「その……、自分、今日は、あの……」
言い淀んでから小さく息を吸い込んで一息に吐き出す。
「泊まるところをとってないので、もし、よかったら泊めてもらえませんか」
―― あ。止まった
今にも泣きだしそうだったリカの涙腺が崩壊する前に止まった。
ぱち、と瞬きをしたリカが小さくうなずく。
「……はい」
「よかった~!」
もちろん、NOと言われればどこか宿を探すくらいいくらでもするし、カラオケで朝まで居座ってもいい。そんなことくらいなんでもないし、明日も明後日も週末の間、リカの予定は自分が押さえている。
それでも、ずっとリカと一緒にいられると思えばつい、声を上げてしまう。全開で笑顔になった大祐から視線をそらしたリカがほんのり頬を染めた。
「じゃあ……、あの、帰りましょう、か」
「はい!」
仕事明けで、少しでもリカの家に近い場所で飲んでいたので、電車に乗ることもなく徒歩でリカの家を目指す。