ゆっくりと頭を撫でられている。
―― ああ。稲葉さんだ……
気持ちいいな、からのどうしてだろう、という状況認識が来て、今ようやく“稲葉さん”にたどり着く。
もう随分、撫でられてない、とか、大人になってからこうして穏やかに撫でられることがこんなにも気持ちよかったなんて知らなかったとか。
とりとめもなくそんなことを考えていた大祐は、はっと我に返って頭を上げた。
「きゃっ」
―― きゃっ……?
目は開いているのに、状況を認識することに間があく。
「……あれ?」
「……空井さん?」
……!
―― そうだ!稲葉さんの家だ!
ようやく昨日からの流れを思い出して、目の前で心配そうに見つめているリカを認識する。
「おはようございます。空井さん、大丈夫ですか?」
「はいっ!大丈夫です!おはようございます!」
完全に寝ぼけていた自分に鞭をくれるようにはきはきと答える。ベッドの上に置き上がったリカが、突っ伏すようにして寝ていた大祐の頭をずっと撫でていてくれたらしい。
寝起きでもすっぴんでも全く変わらずに可愛いリカを見て、ついつい頬がにやける。
「なんですか。お、起きたならそこ、どいてください」
「はい!あ、その前にいいですか?」
「はい?」
にやついた顔が気に入らなかったのか、眉間にしわを寄せたリカに腰を上げかけた大祐が丁寧に伺いをたてる。
怪訝そうな顔を見ながらベッドの上に腰を下ろして、大祐は両腕を広げた。
「あ、きゃ!」
「あー。充電される。……よし!おはようございます。稲葉さん。先に洗面所お借りしますね」
有無を言わせず、両腕にリカを抱きしめてから目を白黒させたリカを置いて潔く離れた。
さっさと背を向けて離れた大祐にリカが思わず呟く。
「……何?充電って」
首を傾げたリカは、やっとベッドから抜け出すと、軽く整えて自分も顔を洗うべく洗面所に向かった。
入れ替わりにキッチンに立った大祐がコーヒーを入れるというので朝食の支度をと慌てたが、大祐に笑われてしまう。
「稲葉さん、朝食なんて食べないんでしょう?無理しなくていいですよ。僕も一人でいたらまず朝なんか家では食べません。そうだな、せいぜい飲みすぎた次の日にコンビニでみそ汁と、ウコンとか買うくらい?あとは食堂で食べるんで」
「え!そうなんですか?空井さん、なんかきちんと自分で作って食べてそうなイメージ」
「とんでもない。男の一人暮らしなんかそんなもんですよ。食材も買ってても余らせちゃったりするし」
「へぇ……」
あまり褒められた話ではないが、それを聞いたリカの顔が少しだけ明るくなった気がする。
笑いをかみ殺した大祐は二人分のコーヒーを淹れた。
「稲葉さん。今日ですが……」
「はい。指輪ですよね」
「稲葉さんが行きたいお店ってありますか?」
「そうですねぇ……。これっていうものは特にないんですが空井さんは希望とかありますか?」
男に指輪の希望があるかと聞かれても、せいぜいシンプルなものをというくらいだ。
「うーん、僕も特にこれというのはないんですが、じゃあ、銀座あたりで見てみるのはどうでしょう」
「銀座、ですか」
「あ、ダメですか?」
「いえ。そういうわけでは……」
場所柄、値段が張ることを気にしたのかもしれないが、大祐は構わないと思っていた。
こん、とカウンターに置いたカップから湯気が登る。
「稲葉さん。ちょっといいですか」
リカの手を引いて、テーブルのそばに移動した大祐は鞄から通帳を取り出す。
それをリカに差し出した。
「これ、僕の貯金です」
「ちょっ、ダメです!こんな、見たりできないです!」
「いいんです。僕は、あなたと家族になるのであなたに話せないことは仕事のこと以外では何もないんです」
あっさりとそういう大祐に一瞬、戸惑ったリカは、全力で首を振って通帳を大祐の手に押し付けた。
「駄目です!いくら婚約者でも、まだ結婚したわけじゃないですし!」
「でも」
「でもも、なんでもダメです!」
「……そっか」
頷いて、大祐はそのまま突き返された通帳を鞄に戻す。
そのまま、大祐はリカをぎゅっと抱きしめた。
「稲葉さん。大好きです」
「空井さん?!」
抱きしめられた背中が暖かい。
それを返したくてリカもその背中に手をまわした。無駄のない筋肉の背中に手を回すと、肩口で大祐がうなずく。
「うん。稲葉さんだ」
「はい……。稲葉です」
「駄目だな。これじゃこのまま動けなくなる」
「ふふ。そうですよ。手を離してもらえないと着替えられません」
そうですね、と言いながらなかなか腕を緩められないから始末に悪い。
大きく息を吸い込んで、よし、と気合いを入れてから腕を緩めた。