戻って、官舎の部屋に入ると、几帳面にも空井は冷蔵庫に向かった。ひとまず冷たい飲み物は最初に飲む分だけ出して、冷蔵庫にしまっている。
ちらりと覗き込むと、その中はビールや飲み物が少ししか入っていない。
「空井さん、おうちで飲むんですか?」
「あ、そんなにたくさんじゃないですけどね。たまに、眠れない時とか」
そう口にしてからしまったと思う。できれば突っ込んでくれるなと思っているのに、そんなときだけはリカはひどく鋭いようで鈍い。
「眠れない時なんてあるんですね。たとえばどんな時ですか?」
部屋の方で買ってきたものをテーブルに並べているリカが自分の方を向いているのがひしひしとわかって、逃げられない。
「……」
「空井さん?」
答えがなかったために、もう一度問いかけられて観念したのか、振り返らずに立ち上がった空井がビールのおまけでついてきたグラスを手にする。
「……今、何してるんだろうって」
「はい?」
「稲葉さんが今何してるんだろうとか考えてたりした時です」
妙に早口になった空井に問いかけてしまった方が、どうしていいかわからなくなる。
慌てて、わざとらしく買い物の袋をかき回した。
「あ、あ。空井さん、お箸とか、ありますか?」
「はいっ」
ばらばらでそろっていないお皿と共に、割り箸を探し出した空井が、それを持ってテーブルの上に置く。
どうやらグラスは一度も使っていなかったらしく、台所に戻った空井が洗っている音がする。
それから、ありったけ買ってきたものを並べたテーブルを前にして、2年分の時間を埋めるように次から次へと話が続いた。それもどちらかといえば、リカの話が中心で、時折、昔の話や、最近の片山や比嘉たちの話が混ざる。
どれだけ話していても、離れていた時間は無くならないこともわかっている。
それでも、相手が目の前にいることを確かめるように話し続けた。
ちびちびと残ったビールを飲みながら、空になったものを片付けていくとテーブルの上が来た時のようにほとんど何もない状態になる。
適当に放り込もうとしていたリカの手をとめて、こっちは分別厳しいんですよ、と言っててきぱき片付けてしまった空井が家の中を動き回る間、だいぶ酔いが回ったリカは、ぽけっと、ただ座っているしかできなかった。
何か手伝いたくても手伝えることもない。初めは落ち着かなかった気分も酔いとともに麻痺してきていた。
「あの……、稲葉さん」
台所や隣の部屋を行き来していた空井が、少しだけ気まずそうに声をかけた。
緊張と、興奮と酔いでボーっとしていたリカがはっと我に返る。
「はい。何でしょう」
「あの、これ、よかったら。あと、僕、こっちで寝ますからむこう、使ってください」
洋服が皺になるからと差し出された服をみて、一気に酔いがさめた気がする。
「あ、の、ありがとうございます」
「あと、何かいるものがあれば」
「いえ!仕事の時はもう、全然そのままってこともありますから」
いやいや、と片手を上げたリカを見て、ふっと空井が笑う。
「僕ら、そう言うところ一緒ですね。僕も仕事の時は場合によっては何日も、なんてときもありますから」
確かにそうだ。取材の時などは、思うにまかせない事の方が多くて、ましてやあの震災の頃を思い出せば。
あの時の話は、取材で触れたこと以上に触れられなくて、話題を避けていたから、余計に想像してしまうのかもしれない。
ん、とありがたく借りることにして着替えを受け取ったリカは、どうしようか迷った挙句、洗面所を貸してください、と申し出た。
すっぴんを見せるのは抵抗があったが、できれば一度顔を洗いたい。
「あ、全然!あの、シャワーとかも使っちゃってください」
そう口にしてから、自分の口にしたことに慌てて、空井が横を向いて正座になる。
「あああああ、あの、別にっ、変な意味じゃなくて、そのっ」
「だ、大丈夫ですっ。わかってますからっ」
気まずさに揃って顔を逸らしたが、お互いに胸の内は複雑だ。
誤解されなかった事は、ほっとしても、何もないことを分かっていると言われては、わからないでくれと男としては言いたくなる。
リカにしても、変な意味ってどういう意味だと突っ込みたかったが、そんな勇気はない。
互いにしどろもどろになりつつも、リカの方が先に鞄と着替えを抱えて立ち上がった。
「お言葉に甘えて、お借りします」
「あ、はい!どうぞっ。タオルとかその辺にあるのを使っちゃってください」
台所の奥にトイレに並んだバスルームがある。部屋との仕切りは空井の方が気を遣って先に閉めてくれた。
顔だけを洗うか迷ったものの、着替えを借りることもあって、鞄から買ったばかりのインナーを取り出したリカは、シャワーを使わせてもらうことにした。
しばらくしてから、かたっと音がして、部屋に顔を見せたリカは空井の服を着てすっぴんを隠すように俯いていた。
「すみません。ありがとうございました」
「はいっ」
意識するなと言われても意識してしまうので、気を紛らわせようとPCに向かっていた空井の方も、見ていいものかどうか気まずくて、そちらを向くにむけない。
部屋の隅にリカが荷物を置いている間に、PCの方へ向いたままで口を開いた。
「あの、明日の新幹線6時台でしたよね。ここからだと1時間くらいかかるんですけど、朝早いのでもうちょっと早く着くかと思うんです」
「あ、はい。すみません。早いですよね」
「ああ、いいえ。そんなことは気にしなくていいんです。僕が送りたいから送るんですから。それよりも、一応、遅れたら大変なので、5時頃にはここを出なくちゃいけませんから」
頷いたリカが携帯のアラームをセットする。朝が弱いわけではないが、自分が遅れたら空井にも迷惑がかかるからだ。
「はい。わかりました」
「じゃあ、気にしないで休んでください」
「え……」
ふと気が付けば、明日着るつもりらしいスーツも一着、こちらの部屋のカーテンにかかっていた。
僕はこちらで、と視線を合わせずに頷く空井に、何か言いたかったが、言葉が出てこない。
「……おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい」
それ以上言えなくて、隣の部屋へと、移動する。
空井の方から襖を閉められてしまうと、拒絶された気がして小さな電球が付いた部屋の中でため息をついた。
ハンガーラックに制服とスーツ。
ベッドというより、マットレスに布団を敷いた状態は直したばかりなのだろう。きちんと整えられていた。
そっと枕に手を伸ばすと、まるで空井の頭を撫でるようにそうっと枕を撫でた。
隣の部屋から、かちん、と音がして、電気を消したらしい。
―― もう寝ちゃうのかな……
まだ話したい。
傍にいたい。
考えるよりも先に、手が動いて、少しだけ襖を開けた。
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