「もしもし」
『お帰り』
「ううん、もっと前に帰ってきてたんだけど、お風呂に入ってて」
『そっか。……もしかして風呂で寝てたとか?』
からかうような心配するような声にひどいな、と呟く。
いくらなんでもそこまで立て込んでいないし、風呂で寝そうなくらいなら初めからシャワーで済ませている。
「お風呂で寝たりしないから」
『そう?俺は寝落ちしかけたことはあるよ』
そっちの方がよほど危ないと思ったがあえて口にしなかった。なんだか、あまり余計なことを言いたくない気分だったのだ。
『……疲れてる?』
いつもよりも言葉少ななリカから敏感に何かを感じ取った大祐が、問いかけてくる。
その声を聞いたリカは、目を閉じて繋がっている電話に集中した。
「疲れてないですよ。ちょっと企画、詰まってるだけ」
『そう?どういうのか聞いてもいい?』
互いに言える話と言えない話がある。それに、普段当たり前すぎて全く気にしていないが、外部から見たらよくわからないようなこともあるのだ。
だから、言えるところは放っておいてもたくさん話をするし、微妙なところは互いに聞くようにしていた。
これも小さなルールの一つだ。
「夏休みのね。企画で……、復興がキーワードなんだけど、難しくて」
『そうなんだ。復興……かあ』
「ん。難しいね。2年たって……」
自分達の間にもその時間は大きく横たわっていて、その時間に触れるのは正直怖かった。
『リカが感じたままでいいんじゃないかな』
「え?」
思いの外明るい声が聞こえてきて、リカはその意味を掴みかねた。
感じたままにというのを言えば、大祐のことは取材をしていたこともあって、感情そっくりを共有することができなくても、おおよそのことは汲み取っていたが、リカ自身のことはこれまで一言も話したことはなかったのだ。
『俺には、やっぱりまだまだテレビの事はよくわからないから、間違ったことを言うのかもしれないけど、リカにその仕事が回ってくるってことは、これまでのリカの仕事を見てるからじゃないのかな。だから、任せられるって思ったとか』
「そんなことない。だって、うまくいったものもあれば大人の事情ってことも、もちろんあるもの」
『うん。それは仕方ないよね。だけど、見てる人にはそういうの関係ないんじゃないかな』
ずき。
さらりと言うが、広報の仕事をするようになって、だいぶ長くなってきた大祐は、責めるわけでもなく淡々と言う。
『大人の事情も含めて、リカがやってきたことへの信頼だから』
「……はい」
ますます、安易なお祭り企画には逃げにくくなったなぁと思いながら、短く答えたリカに、電話の向こうが少しだけ慌てた。
ごめん!俺、わかったようなことを言って、という大祐に、そんなことはないと伝えて、電話を切った。
できることをするしかない。
それはあの時、胸に刻んだし、もうすっかり東京では別世界のような時間が流れている。
リカは、クッションを抱えてそのままソファに横向きに倒れ込んだ。
その週末、車で来ると言っていた大祐にリカは自分が行くと言いだした。
「大祐さんがいる間にもうちょっと色々行ってみたいし」
『あー……。そう言われると確かにほとんど出かけてないね。どこに行きたいとかある?』
「それも考えておきます」
『うん……』
―― 何だろうな
この前からリカが少しだけ元気がない気がしていた。企画で詰まっているとは言っていたが、そのせいだろうか。あまり仕事の事を引きずらないと思っていたのに、電話していても、どこか上の空というか、歯切れの悪い返事をしたり、他人行儀な口調に戻ることもある。
ないとは思うが、この前自分が余計なことを言ったからだろうかという気もしてくる。
「リカ?」
『はい?』
「好きだから」
『は?!な、何?急に』
電話越しとはいえ、夫から急に告白されて、電話の向こうで慌てふためいている気配がする。
「いや、何となく。言いたくなったから」
『なんとなくって……。そりゃ、言ってもらうのは嬉しいですけど』
「うん。俺も口に出したら嬉しかった」
言われたからではなく、口に出したから。
口に出して言えるから。
愛してると言ってもいい関係でいられることが嬉しかった。
大祐の部屋の中にも、いつも持ち歩いている写真とは別に、写真たてが置いてあった。
写真の中のリカは笑っているのに、電話の向こうはどうなのだろうと思う。
「じゃあ、週末までにどこに行きたいか考えておいて」
『うん。わかった』
「お休み」
『おやすみなさい』
ぴ、と電話を切ってからも妙な余韻が残る。
―― どこでもドアとか、ほんとにあったらいいのに……
そうしたらリカのいる場所と常につないでおけるのに、と思いながら大祐は横になった。