「大丈夫?」
「うん。なんか、痛くなかったんだけど、ゴミが入ったんだと思う」
心配そうに眺める大祐の隣にすとん、とリカが戻ってくる。普段は鈍いのに、なんだか大祐には今日のリカがひどく傷ついているような気がした。
脈絡も根拠も何もない。
ただ、これも、夫婦になったからだろうか。不思議な気がしたが、リカのあちこちから素の表情が見え隠れしている気がした。
残りのビールを飲みながら、弁当の中身にもどる。
「はぁ。でもこれ、すごいね。一人ではとても食べられないよ」
「あ。ものすごーく高いんじゃないの?」
「ものすごーくはないけど、まあ、お店で夕食、食べるよりは少し安いかなぁ、くらい」
―― それって高いって言うんじゃ……
そこは都内で働く女性だからなのか、華やかな職業だからなのか、おおざっぱすぎやしないかと思ったが、本当に食べさせたくてわざわざ予約までしたのかと思うと、仕方がないとも思えてしまう。
「まあ、たまになら……」
「あ、もちろん!もしかして、大祐さん、私のこと、金遣いが荒いとか思ってませんよね?!」
「そりゃ、前に色々見せられたし、そんなことはないけど、思い切りのいい使い方はするよな、とは思ってます」
がーん、と珍しくオーバーアクションのリカにくすっと笑う。
リカが普通なのかもしれないが、大祐のほうは、極力荷物を増やさないという習慣が染みついている。それだけに、飲み食いにしてもあまり視線が向かないのだ。
「いいんだよ。俺、なんていうか、世の中のことに疎いっていうか……」
「物欲がないってこと?」
先回りした妻に、そうそう!と頷いてしまう。服も、制服が多いし、食事も基地の中がほとんどとくれば、それも仕方がないだろうし、いくら好きでも飛行機は買えないだろう。
そんな大祐にリカがう~っと唸った。
「私なんて、物欲ばっかりです。浪費してるわけじゃないんだけど……」
「女性は仕方ないよ。俺達と違って、リカは都内で仕事してて、人に会うことも多いんだしさ」
ほんとに?と不安そうな目が嫌わないで、と弱気な顔を覗かせている。
それが可愛くて、ひょいっと弁当から指先でつまみ上げた、ふにゃっとしたものをリカの口元に運んだ。素直に口にしたリカがくるっと目を動かして、粉のついた大祐の指先もぺろりと舐める。
「わらび餅、かな」
「あ、デザート?」
ご飯はまだたっぷり残っているのに甘いものを先に食べさせてしまった大祐が、リカに舐められた指先をまじまじと眺めてから、ぺろっと自分でも舐めてみた。
「甘い……」
「ちょ……、やだもう」
ただ指を舐めただけなのに、そこはかとなく漂う空気に、視線を逸らした。
その瞬間だった。
ゆらっと、視界が揺らいだ気がした。それと同時にどちらかの携帯が騒ぐ。反射的に、大祐がテレビの電源を付けてリカを抱き寄せた。
「!」
「落ち着いて」
すぐにテレビの画面には速報が流れて、ざっくりした情報が出る。
揺れはそこそこ大きめだったが、すぐに収まって、かたかたと揺れた部屋の中も落ち着いていた。
「……リカ?」
初めこそ、力強くリカを抱き寄せていた腕は、経験から大したことはないと思った時点で、少しだけ緩んでいたが、腕の中のリカは違った。
自分自身を抱きしめるように強張った体と、見開いた目はテレビを凝視している。
大祐に声をかけられてからも固まっていたリカが、少ししてから大きく息を吐いた。まだ指先から引いた血の気が戻ってはいない。
テレビの画面が切り替わって、震源地や詳細を並べただけで、そのほかの影響は問題ないと言っていた。
それを聞いてから、自分自身に爪を立てていたリカがようやくその手を離す。
「大丈夫だよ。もうおさまったから」
怖かった?とリカの顔を覗き込んだ大祐は思いのほか青ざめているリカに眉を顰めた。改めて、両腕だけでなく足の間にリカを引き寄せる。
「……大丈夫。なんでもないの」
「大丈夫な顔じゃない。……俺も前はそうだったけど」
直後は、本当に立て続けの余震でままならない救助にどれだけ気持ちを揺さぶられただろう。
今でこそ、こうしていられるが、当時のことはあまり思い出したくはない。だが、リカの様子を見ていて、ふと、大祐は思い出した。
取材はしていても、大祐がすべてを話していなかったことも、そして、何より。
リカから話を聞いていなかったことに今更、思い出す。自分はもう、わざわざそんなことを言う必要はないと思っていたが、それは勝手に思っていただけで、幸せに目がくらんで、話すべきことを話してなかったかもしれない。
抱きしめたリカの背を撫でながら、大祐は一歩踏み込んでみることにした。
「ごめん。俺は、俺の気持ちは、あの時のメールとか、あとから見せたメールとかで少しは話せたかもしれないけど、リカのことは聞いてなかったね」
すっかり気持ちを飛ばしていたリカは、何度も背中を撫でられて、ようやく我に返った。
それほど自分が動揺するとは思っていなかっただけに、自分自身でも驚いてしまう。
「あ……。なんか、やだな。私、おかしいね。大丈夫。平気だから」
「平気そうに見えない。それにわかってる?自分で」
「え?」
自分でわかっているかと問いかけられたリカは、何を言われたのか理解出来なくて、大祐を見上げた。
怒ったような困っているような顔の大祐にどうしたのかと思っているとぐいっと肩に顔を押し付けられた。
「……え?」
「気にしなくていいよ。落ち着くまでこうしてるから」
何を急にと思ってからようやく気が付いた。
「あれ?私、泣いてる?また?」
ぽけっとした物言いが本当に自分でもわかっていないらしくて、ますます深いため息が出た。
何があったのかはわからないが、とにかく自分が傍にいる間でよかったと思うことにする。腕を突っ張って、大祐から離れようとするリカを強引に腕に留めた。
「大丈夫。ほんとに大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよ!……なんで」
―― 自分には話してくれないの
あやうくそう言いかけた大祐が言葉を切った。
つい、目の前のことにいつも気をとられて忘れそうになる。自分たちはまだ普通の恋人同士から比べても一緒にいる時間がはるかに少ないのだ。
「……ごめんなさい。心配かけて」
怪訝そうな声がかかって、自分自身でもきっと、戸惑っているんだなぁと思う。ゆっくりと腕を解いた大祐は、自分以上に不安そうな顔をしたリカを見つめる。
「心配かけていいんだよ。夫婦なんだから。当たり前じゃないかな」
「……うん」
今度は、リカの方から、とん、と寄り掛かってくる。
「へへ。なんか、ね。ちょっとびっくりしただけ」
「うん」
そこから先に進まないままで時間だけが過ぎる。弱いエアコンの風にさらされて弁当が、かぴかぴに乾いていく。
それに目を向けたリカは、乾きだしたご飯を申し訳なさそうに見た。
「ああ、もう。せっかく買ったのに。もうお腹いっぱいになっちゃったし……」
これじゃあ、と言葉を切ったリカに、大祐もそれを見て、あ、という顔になる。リカが空井の腕から離れて立ち上がった。
木箱ごと捨てようかと思ったが、どうしよう、と大祐に視線を送ると苦笑いして一緒に立ち上がった。
「中身は仕方ないけど、この小さいのは洗ってとっておこう。ちょうど2つになるし」
「2つ?」
「そ。2つ」
ふふ、と互いに笑いあって、後片付けを済ませると、テーブルを拭いたついでに大祐がテレビを消した。リカがいるときは、リカと話していたいから無意識にそうしてしまうのだ。
片づけを終えたところで、大祐はリカの手を取った。
「たまには、ちょっと早いですけど、布団に入って話したいんだけど」
う、とひるんだリカに苦笑いを浮かべて、小さく大祐が囁いた。
―― 極力、悪さはしません
情けなさそうにゆがんだ顔が可愛らしかったようで、リカが久しぶりに背伸びをして大祐の頭を撫でながらいいですよ、といった。
大祐の部屋では、低いフロアベッドでシングルなのはリカの部屋と同じである。腕枕に重くないかと聞いてきたリカを肘の先で引き寄せた。
部屋の明かりは落として、枕元で充電している携帯のランプだけがついている。
「……もし、嫌だったらすぐにやめるから言って」
「?うん」
「あの日、俺は打ち合わせしてたんだよね。ブルーの企画をリカにもっと見てもらいたくて」
ああ、と思ったリカは黙って頷いた。さっき動揺した自分の方がおかしくて、今なら普通に話せると思っていた。
「リカは?仕事だったでしょ?ロケの最中?」
「ううん。大祐さんに来るなって言われて、ちょっとへこんで」
「あ、あれはっ!」
動揺した大祐が一瞬、腕をあげそうになって、そこにある重みに我に返る。大祐の頬にリカの指が触れて、小さく笑う声が聞こえた。
「それから、僕が会えないからって言われて、ちょっと嬉しかったの。あの時は、松島まで取材でもないのに呼んでもらえた後だったし」
「会いたかったから。ほんの少しでも、リカに会いたいって思ってて、仕事じゃなかったらまだ誘っていいのか迷ってたしね」
迷うところなの?というリカに、天井を向いた大祐は、渋い顔になって目を閉じた。
「迷ったよ。色々」
確かにあの時は、どちらも不安を抱えていた。会っていいものなのか、もう一度間違いを繰り返さずにいられるだろうかと。
大祐が、手を伸ばして空いているもう片方の手をリカの手を繋いだ。
「……それから、局に戻って珠輝達と、番組の打ち合わせしてて」
「都内もめちゃくちゃ揺れたんでしょう?」
「うん。そうだね。あの時は、もう全然皆動けなくて……。女の子たちはだんだん悲鳴と泣き声がし出したけど、男の人たちは皆、壁とかにあるテレビが落ちないように必死になって押さえてて……」
テレビ局だけに、あちこちに液晶のテレビがあって、固定されているはずが恐ろしいくらい揺れていたなあと思いだす。壁のキャビネットの上もデスク周りも、整理されているとはいえ、消防法の点検が入ればいつも総務に叱られるのが局の中の風景だった。
「その後はあの取材させてもらった時のとおりですよね?」
「……リカ、ディレクターの口調に戻ってる」
「あ……。だって、仕方ないじゃない。つい……ね?」
目を閉じていた大祐が堪え切れずに笑い出してリカの方へと向きを変えた。
「うん、わかってる。それで?」
「それからは……、報道のヘルプに回ってました。ほら、メールしましたよね」
「覚えてる。何度も読み返したから」
「じゃあ、……いいじゃないですか。私はメールしたくらいのことだけです。ほかには何も」
―― ああ、やっぱり変だ
いつもなら開いてくれるはずの扉が閉められてしまった気がする。それ以上にぴりぴりとした気配が伝わってきて、リカが触れられたくないのだとわかった。
腕枕をしている方の腕で、ぽんぽん、と優しく頭を撫でる。
「うん。ごめん」
「いえ……。私こそ」
「いいんだ。嫌なこと聞いてゴメン」
そっとリカの額に口づけると、もう寝よう、と呟く。うん、といつもよりも頼りないリカの声が返ってきて、二人そろって目を閉じた。