笑顔を覚えていて

「稲葉さん」
「はい?」

久しぶりに会って、空井を気遣っていたリカと話し始めると他愛のない話が止まらなくなった。
互いに震災の話には触れかけては離れ、互いに触れてはいけない何かがあることをわかっていながらそれを避けていた。
だが、それももうそろそろ終わりにしなければならない。

時計を見た空井は、リカの顔を見ながらするっと口を開いた。

「僕は、松島基地へ異動することになりました」

その瞬間、がっと濡れたジョッキを机にぶつけてしまった。慌てて空井がジョッキを取り上げて、おしぼりでこぼしたビールを拭いてくれる。

「あ、あ。すみません!やだ、もう」
「いえ」

空になったジョッキを返して、ビールをもう一つ頼むと、手持無沙汰になった手がコースターの上で忙しなく動いた。
指先から血の気が引くようで空井の顔を見られないでいる。

ごと、と目の前に置かれたジョッキに急いで手を伸ばすと、一口飲んでから大きく息を吐いた。

「あの……、なんて言ったらいいのか」
「わかってます」

何も言わなくていいのだといいながら、一度下げた目を上げて空井はまっすぐにリカを見た。

「志願したんです。僕は、僕にできることをしようと思います」

そのまっすぐな目をみたリカは視線を逸らしてジョッキのグラスについた水滴ばかりを見ていた。
ただ、小さく何度も頷いた。

「だから、僕も頑張りますから、稲葉さんも」

―― これからも頑張ってください。

喉の奥に石の塊があって、どうしても声が出なかった。ビールで飲み込んでしまおうとしたけれど、どうしてもその石は喉につかえて、言いたいことが言えない。

「そろそろ電車、遅くなりますから、帰りましょう」

促されて、駅までの道を歩く。

今、この手を取ったら、この人は自分のことをもう少し見てくれるだろうか。

そう思うのに、手を伸ばしたくて伸ばせない。触れそうで触れない手が苦しくて、あともう少しだけ、時間があったら、と思うのに、目の前には駅が見えてきてしまう。

「じゃあ」
「……はい」
「稲葉さん、……お元気で」

はい、と答えることができずに、頭を下げたリカは改札に走りこんだ。ぴっという音をさせて改札を抜けてから、数歩進んで振り返った。
涙が滲んできて、視界がぼやける。

なのに、その人はまっすぐに立っていた。
いつものように、まっすぐに、口を引き結んで。

リカの泣きそうな顔を見て、笑ってくれた。
一番、優しい顔で笑ってくれた。

―― もう駄目だ

涙が流れる、と思った。それでも、リカもにこりと笑みをかえした。遠くても、きっと空井にはリカの涙が見えていたはずで、一瞬、その笑顔が歪んだのに、大きく手を振ってくれた。

―― もう、笑えない

溢れてしまった涙はもう止められなくて、リカは背を向けてホームに向かった。ぼろぼろと流れる涙がどうしようもなくて、ホームのベンチに腰を下ろす。

何本も電車はホームに入っては出ていくがいつまでもリカはそこに座っていた。

そういう、仕事なのだと。
誇りを持って、その仕事に向かっている人なのだと知っていたはずなのに、今だけは素直に行ってらっしゃいと言えなかった。

あの時、傷つけたまま担当を外れてしまった時よりはまだましなはずだと思いたかった。
なのに、もうあの場所に行っても、空井にはもう会えないことがこんなにも痛い。

何度も涙を拭ったリカは、終電の少し前にようやく重たい足を引きずって電車に乗りこんだ。

凍りついたように、何も言えなくなっているリカを見て、心に決めてきたのに言葉がなかなか出なかった。

札幌でのキス。
半年たって、ようやく胸を張ってみてもらえる仕事ができて、一緒にブルーを見ることができた。

『一緒に見られてよかった』

そういって笑ってくれた彼女と、心が通じた気がした。
それなのに、あの日が来て。

随分、長いこと顔を見る機会がないまま、メールだけのやり取りが続いて。
やっと会えたというのに、こんな話では呆れられるのも仕方がないと思う。

―― すみません

自分が一歩、踏み出したくせに身勝手にまた自分から離れようとしている。もし本当に心がつながって、付き合っていたら、遠距離だろうとなんだろうと構わなかった。
でも、現実は違う。

リカの指先が、何度もグラスの水滴をなぞるのをみて、もう駄目なんだと思った。

まだ時間があるのはわかっていたが、遅くなるからと言って店を出る。
この手を掴んで、せめて今だけは引き留めたら引き留められるだろうか。

―― ……でも、それは稲葉さんには似合わないかな

仕事に向かって一生懸命で、まっすぐなリカだから、自分は惹かれたのに。
その翼を折るような真似ができるはずもなかった。

「じゃあ……お元気で」

それが精一杯だった。
これも自分には仕方がないと、思いながらリカが改札を抜けていくのを見送っていた。

―― もう、これで最後なのかな

そう思った瞬間。、目に涙をいっぱいに溜めたリカが振り返った。

「!」

唇を噛みしめたリカの顔を見たら、つられそうになって眉間に寄りそうになった眉を力づくで開いた。

『笑顔で送り出してください』

いつかの鷺坂の言葉が頭をよぎった。
全身全霊を込めて、笑顔を作り出す。もう、これで最後だとしても、笑顔で別れたかった。

その想いが通じたのか、こらえきれなくなった涙をこぼしながら、それでもリカが何とか笑みの形を作った。

これでいい。自分たちにはこれが精一杯なのだとおもうと、今度は自然に笑みが浮かぶ。
大きく手を振ると、リカが振り切る様に駆け出した。

―― 稲葉さん。どこにいても、空はつながってますから。だから……、ずっと……

あなたを見ていますから。

ずっとリカの姿が見えなくなってもその場に立ち尽くしていた空井は、目尻に涙が滲んだことも隠さずに歩きだした。

end

投稿者 kogetsu

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