時間を知らせるといっていたのに、なかなか空井から連絡は来なかった。ようやく来た連絡は夜になってからで、素っ気ないメールが一本。
朝、向こうを出るからという連絡だけで何時に来るのかもわからないまま、朝早くから、リカがじりじりした気持ちで家にいるとチャイムがなった。
「はい?」
インターフォンにでたリカは、思いがけない声を聞いた。
「おはようございます」
「え、空井さん?!ちょ、ちょっと待って」
慌てて玄関に向かうとスーツ姿の空井がそこに立っていた。
「入っても、いいですか」
「もちろん……。あ、どうぞ」
ドアから手を放して空井が中に入ると、妙な気まずさのままリカは空井を促した。何か、飲むものでも、とキッチンに向かいかけたリカの手を空井が掴む。
「待って。こっちにきて、話を聞いてください」
「……はい」
空井に手を引かれて部屋の真ん中についていくと、ソファに腰を下ろした空井の隣りにつられてリカが座る。先に座っておいて、何かが違う、と思った空井はソファから降りて直に座りなおした。
リカを見上げるようにして、膝の上に置いたリカの手を握る。
「連絡、しなくてすみません。なんていえばいいのか、ずっと考えてて」
「……いえ」
続きを話さなければと思いながらも、散々考えてきたことなのに、いざとなると何から話せばいいのか戸惑ってしまう。口を開きかけては黙り込んだ空井は、リカがじっと黙って待っていてくれる間に、腹を決めた空井はゆっくりと口を開いた。
「あの日……。東京から来たっていう女性が基地の傍にいて、ずっとフェンスの傍を行ったり来たりしていて気になってたんです。それが、いつまでたっても離れずにそこにいるので、声をかけたんです」
ただ眺めているにしても何時間も同じ場所で眺めているのはさすがに目につく。時々、航空ファンや地元の人が見に来ることはあっても、それとは雰囲気が違うのだと、リカならわかってくれるだろうとは思いながらもできる限り伝わってほしいと願いを込める。
そんな女性の様子を話した空井を訝しそうに、リカは黙って話を聞いていた。
「その人は、子供の頃は近くに住んでたそうです。今は一人で、東京に住んでいるようなんですが、お母さんの育ったところが、廃村になったらしくて、見に行く勇気がないっていうお母さんの代わりに見に来たそうです。子供の頃、夏休みや冬休みに親戚やお母さんのご実家に向かう途中で、何度も基地の傍を通ったらしくて」
「そうなんですね……。いろんな方がいらっしゃいますよね」
同じようでいて、少しずつ違う。そんな場面をたくさん、リカも見てきた。
空井が最終的に何を言いたいのかわからなかったが、ひとまずその話を聞くべきだと思ったリカは、小さく頷いた。
月嶋と名乗ったあの女性とのひと時を、空井は包み隠さずに話した。自分が惚気たことも何もかも、時々、リカが何かを言いたそうな顔をしたこともわかってはいたが、とにかく聞いてほしい気持ちが先に立って、少しずつ身振り手振りも加わって話し続ける。
「早く仕事を上がれることより、俺もリカのところに早くこられるなってことくらいで、軽く声をかけてしまったんですが、すんなり室長の許可ももらえたので仙台駅まで一緒に乗せました」
「その方、よかったですね。大祐さんに出会えて」
「え……」
思いがけないリカの言葉に空井が、ぴたりと動きを止めた。穏やかな笑みを浮かべたリカがなぜだかひどく嬉しそうな顔をしているのがよくわからない。
ぽかんとした空井に向かって、リカは自分の言葉が足りなかったのかともう一度繰り返した。
「大祐さんに出会えて、その方、よかったなって思うんです。きっと私が大祐さんに会って、好きになる前だったけど、ここに……。ここを動かされたので」
リカがそっと胸のあたりに手をあてて目を伏せる。
恋になる前だったが、空井は確かにリカの胸にある何かを動かしたのだ。それは、頑なだった心だったのか、何だったのか、リカ自身もわからないが空井に出会わなければ自分はまだ、変われないままだった気がする。
「そう……だといいなって、自分も思います」
別れ際、月嶋が、空井に出会えてよかったと言ったことを思いだす。
「それで、月嶋さんは東京に住んでいて、日頃は忘れかけてることや、復興とかそういう言葉だけが先走ってて2年たった今でも何も変わらないところだってあるってことの間で、すごくジレンマを感じているようでした。自分と同じ時間が流れてるようには思えないって」
空井とリカには同じ時間が流れているのだと言われたが、そんなことはないのではないか。
本当は、好きだからその事実に目をつむっているだけで、空井とリカの間の時間も大きく違っているのではないか。
「新幹線に乗った時は、リカさんを迎えに行けるくらい早くつけるとか、そんなことしか考えてなかったんです。でも、“稲葉さん”の話を聞いていたらなんだか、ほんとに離れてるんだなって思えてきて……。いろんなことがごちゃごちゃになった気がしたんです。本当に、いろんな人がいて、頭ではわかってはいるんですけど。まだまだ大変な人もいれば、それに便乗する人もいたりして、時間も距離も……」
どうしようもないことも、理不尽なことも、それらが自分とリカとの間にもある気がして、急にその距離を感じてしまった。
自分の覚悟はそれに見合っているのか、リカと一緒にいてもいいのか。
「……触れちゃいけないんだと思ってました。私が見ていたものは、きっと全然違うもので、それを聞かせてまた傷つけたくなくて」
言葉を切った空井を見ていたリカが、静かに口を開いた。空井をまっすぐに見つめた目は、あの日松島で、再会した時と同じくらいきらきらとしてまっすぐできれいだった。
「私が幸せになるには空井大祐という人じゃないとだめなんです。傍にいるときも、傍にいない時も、空井さんが感じること、思うことを一緒に考えたい」
「うん……。仕事じゃなくて、僕が見たこと、リカさんが見たこととか感じたことも、もっと早くに話せばよかった」
ふっと砕けた口調になった空井が頷いた。リカが、こうして気を使ってくれていたことにも気づかなかった自分が情けないが、それでも今こうして知ることになったのだから、間違ったこともきちんと伝えて謝りたい。
「別の場所にいるからこそ、違う目線も知ることができるってすごく大切なことだったのに、つい……。ごめんなさい」
深々と頭を下げた空井の手をぎゅっと握ったリカが、はぁ……、と小さくため息をついた。
「……よかった。嫌われたのかと思ってもう……どうしようかと思った」
「そんなわけない!そんなこと、あるわけないじゃないですか!そうじゃなくて……」
がたっと飛び上がる様にして腰を上げた空井が、リカと同じ目線になる。膝をついた空井を慌ててリカが引っ張って隣に座らせた。小さく頷いた空井が、リカの手を包み込んでいた手をそっと放すと、腕に巻いていた時計を外した。
「これ、僕が戦闘機のパイロットになれた時からずっとしてる時計なんです。その時は、ものすごく贅沢だったけど、ここは飛行機乗りの憧れっていうか……」
「ええ。大祐さん、ずっとこの時計使われてますよね。というか、みなさん、腕時計はすごくいいのをされてるなって思ってて……」
「あの、これ。離れてても、同じ空の下、同じ時間を過ごしてるってことで……。本当は指輪とか、ちゃんと用意するべきなのはわかってるんですけど、俺、そういうのに詳しくないんで、その代わりに」
「……え?どういう……」
手の上に、ごつくて、細かい傷の刻まれた、空井と共に過ごしてきた時計が乗せられていた。
急に重さを増したそれと空井の顔を見比べる。
「稲葉リカさん。たくさん、話をして、一緒に笑って、悲しいことも楽しいこともいっぱい話したい。だから……、僕と結婚してください」
目を見開いたリカが、思わず呼吸を忘れる。
「僕たちは、いざというときも一緒にいられないけど、その代わり並んで違う道を走ってる。傍にいるんじゃなくてそういうのが僕たちなんだなって。だからずっと一緒にいてもらえませんか」
空井に握られた手と反対側の手がリカの口元に向かう。はい、という言葉がなかなか喉に詰まって出てこない分、何度も頷く。
なんでだろうと思うのに、勝手に涙がこぼれてきて、リカは、手の上の時計を握りしめた。
「も……、何度も駄目なんじゃないかって……。私だって、空井さんとの価値観とか、いろんなものが違いすぎて、すごく不安になったり、私じゃ駄目なんじゃないかって思って……」
同じだったのだと、思うと空井はこれからどれだけ離れても、大丈夫な気がした。
二人をつなぐ、ゆがみのない円がその手にいつか輝くから。
もう傷つけない。
その覚悟で、空井はリカを引き寄せた。
空井の携帯には、昨日届いた藤枝からのメールがある。
『ウサギ、不安そうで怯えてます。大事にできないなら、傍にいる俺がもらいます』
あの時、リカの傍で藤枝が打ったメールだ。そして、その返信は……。
『リカさんがそれを望むなら。でも、俺は離しません』