局の廊下はPタイルでもフロアはカーペットが敷いてあって、足音は吸収されてしまう。
その割に、ぽてぽてと足音がする場合は男性か、女性でもブーツ系を履いている場合がほとんどだ。
遅めの出社をする藤枝が珍しく打ち合わせがあるので、早めの出社で帝都イブニングのフロアに顔を出していたのは、偶然なのか必然なのか。
もちろん、金曜日だというのに、1日の内、ほとんどが打ち合わせで埋まっていて、編集やナレーション作業が合間にはいっているだけという日は珍しい。
そういう日にフロアにいたからだと言われればそれまでなのだろうが、目にした光景に、持っていたコーヒーを落とさなかった自分をほめてほしいと藤枝は全力で思った。
「おはようございます。……何よ」
マキシワンピにさらりとカーデを羽織り、さらに足元はつま先が開いたブーツのようなものがちらりと見える。
目の前を通り過ぎた稲葉リカという見慣れていたはずの女を見て、完全にフリーズした藤枝を失礼な!と怒る者はいない。
朝のフロアはそれでなくても人の数が少ないものだが、それにしても、似たような反応を見せるのは男性スタッフが主で、女性スタッフは目くばせを送り合っていた。
「おはようございます!稲葉さん、それ、この間のでしょう。可愛い~!」
「ちょ!おはようっ、いいから、声大きいってば!」
「何言ってるんですか!可愛いものは可愛いんだからいいじゃないですか。藤枝さんなんか、あんまり可愛すぎて固まってますよ」
「んなわけないでしょ!……どうせ馬子にも衣装とか思ってんのよ」
不機嫌そうに席に座って、ノートPCを開いているリカを振り返った藤枝は、第一声に何を言うべきか、手持ちのスキルを総動員する羽目になる。
―― ……こいつ、自分でわかってんのか?俺でさえ、驚くっての……
散々悩んで考えた挙句、口から出てきたのがまずは挨拶というところで、我ながらまだまだだな、と思ってしまう。
「あー……。おはよう。それから……」
「だからっ!どうせ似合わないとか思ってるんでしょ?いいわよ、何も言わなくったって」
フロアに来るまでの間にも、近づくにつれ、顔見知りや見たことがある顔ぶれが驚愕の色を浮かべる姿が増えてくる。その面々のほとんどが、二度見するというのを繰り返していた。
おかげでフロアに着くまでにはすっかり拗ねきったリカが出来上がるというわけだ。
そんなリカをまったく気にせず、という珠輝のスルーっぷりにも驚いていると、珠輝はきゃっきゃと笑い出した。
「やだもう、稲葉さんったら。自覚ないにもほどがありますよ。空井さんとデキてから稲葉さんの女度めちゃくちゃ上がってるんですよ?今日だって、その格好見たら今夜はデートなんだなってわかりますよー」
「でっ!デートとかじゃないから!!ただ、……ちょ、ちょっと、こっちで飲み会があって一緒にいくだけで……」
「結局デートじゃないですか!やっばい。週末ラブラブですね!空井さん!」
完全に冷やかしモードに入った珠輝とやめてよ!と叫んでいるリカとのやり取りを見ていても、こっちが恥ずかしくなる。
ひきつった顔でコーヒーを口にした藤枝は、リカの隣に椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。
「俺もいろんな女の子と付き合ってるけど、お前、やっぱ、すげぇわ」
「はぁ?!」
「でさ。俺も今夜のりん串よばれてるの、知ってるよな?」
「知ってるわよ」
ぶすっとした顔をしていても、いつものリカと違うのは、カチューシャのようなもので髪をまとめていていつもより肩にかかる髪がふんわりと巻かれていることだ。おかげで、ガツガツな物言いをされようと、さほど怖いとは思わない。
それさえ、藤枝の知る空井という男のためにあのリカがと思うと、衝撃を通り越して、笑い出しそうになる。
「俺……、今日一日お前とほとんど同じスケジュールでよかった気がする」
「あ!それはあたしもそう思います!藤枝さん、今日は忙しいですね!」
しみじみとした藤枝の言葉に、珠輝が力いっぱい拳を握りしめて頷いた。
意味の分からないのは当人だけで、なんなのよ!と怒っているが藤枝も珠輝も、そして周りで話を聞いている全員が同じことを考えたはずだ。
「もう、稲葉さんってば……。空井さん大変」
「俺、もう今日だけで恐ろしすぎる。やだやだ」
肩を竦めた藤枝は、リカに説明する気などはなからない。どうせ説明したって、この女にはわからないからいいと思っている。
説教をすべきなのは旦那だろうし、その旦那がこの格好を認めているなら後は馬に蹴られないように、旦那の援護射撃をするまでである。
やれやれ、と肩を竦めた藤枝は、今日一日、本当に気苦労で疲れ切る自分を予想して、窓の外に見える青空を恨めしく思った。
「稲葉。……お前、一応女の自覚があったんだな」
「阿久津さん。それ、セクハラですか、パワハラですか」
「……どっちでもないが失言だった。すまん」
朝一番の会議の冒頭ででたそんなやり取りがその一日を象徴していた。
「稲葉さん。今度飲み会どうですか?」
「稲葉さん、今度合コンしませんか」
「この後のランチどうです?」
次々と声がかかるのは主に男性スタッフだが中には女性陣からも声がかかる。
「稲葉さん、今度女子会しません?」
「稲葉さん、今度、貸切でイベントあるんでどうですか?」
頼むから局の外でランチをしたいと言われて、リカと一緒に表に出た藤枝は近くの和定食の店に腰を落ち着けると、にやりと笑ってリカに感想を求めた。
「で?どうよ。稲葉」
「……疲れた」
「まあ、そうだろうな。おかげで俺はお前のメルアドを聞かれまくって完全に秘書状態だ」
「なにそれ!?いつの間に……」
セルフの冷たいお茶を二つ、それぞれのコップに注いだリカが、ありえない!と叫んだ勢いで注いだ茶をこぼしてしまう。ぶつぶつと文句を言いながらも、おしぼりでテーブルを拭いたリカが、日替わりのマグロ丼を二つ頼むと、その目の前で藤枝は懐の携帯を取り出した。
「だからさ。お前、がつがつで有名だったけど、空井君とくっついてから雰囲気柔らかくなったじゃん。それで局内の人気はぐーんとあがってたわけよ」
「そんなの知らない!だって、皆……」
仲のいい人はもちろんいるし、ともみだって張り合いはするけれども、同期の仲間として仲が悪いわけではない。だが、こんな風に声をかけられることは今までなかった。
報道での一件以来、それは特にあからさまで、皆、リカと関わることを避けるようになっていた。リカ自身も誰も信じないというスタンスに近かったから増々、その悪循環は続いていたはずだった。
それが、この急に掌を返したような反応に驚いてしまう。
「なんか、気持ち悪くない?急に……」
「気持ち悪いはさすがにまずいだろ」
苦笑いを浮かべた藤枝がメッセージアプリに来ている社内の知り合いたちからのメッセージを見る。打ち合わせに出ていた面子は限られているが、この手の話は伝わるのも早い。
今、藤枝のもとには次々と、噂話が入ってきていた。
『藤枝!あの稲葉が可愛くなったって本当か?!』
『藤枝~!お前、今日連れて歩いてる女誰だよ?!』
『藤枝ちゃん?本命の女連れて歩いてるって本当?』
「うぉっ!!……お前、なんかここまでくると面白すぎるだろ」
「なんなのよ!もうっ。わけわかんない」
「わかんないの?……まあいいけど」
おまちどぉ!と運ばれてきたマグロ丼を食べながらリカはぶつぶつと文句を言っていた。
「なんか、変じゃない?」
「何が?」
「たまたまよ?こういうのだっていつもじゃないし」
「そうだなぁ。いつも着てるわけでもないなぁ」
「なのになんで?」
肩を竦めた藤枝はその場で説明するつもりなどなかった。いくら言っても聞かないだろうし、とにかく夜までなんとかしのぐしかない。
「まあさ、それは夜になってりん串に行って、空井君と話せよ。俺があれこれ言う話じゃないし?俺は今日一日お前の秘書替わりをしているだけでへとへとだから」
「だから!秘書っておかしいから」
―― こいつ、本当にどんなトラウマでもあって自分のことをここまで可愛くないって思い込んでるんだ?
ここまで来ると藤枝もリカの無関心ぶりが面白くなってくる。
「あのさ。お前自分のこと、かわいくないって思ってるだろ?」
「うん」
「それ、なんで?」
目の前でなんでって、と言葉に詰まっているリカがやっぱりおもしろいと思う。それを可愛いとは絶対に思いたくないのは藤枝の意地でもあった。