「……稲葉さんは、ご自身の結婚式の方はどうですか?」
「ええ。いらしてくださる皆さんには一通り声をかけてお願いしていて、人数が固まったので、あとは細々したことですね。お花やカード類は、もう私が決めてお願いしてますし」
「何、空井のやつ、稲ぴょんにまかせっきりなの?」
携帯メールから戻ってきた片山が比嘉の隣に陣取った。りん串で飲んでいることは彼女にも言ってあったが、この分では解散が早いと踏んで彼女のところにメールしていたのだ。
「そんなことないです」
真面目そうな受け答えは相変わらずで、ほとんど手を付けられていない、イカのワタ焼きに箸を伸ばした。
肩に張り付いている空井が非常に重く感じたが、それを払いのけるほどのつもりはない。
「空井さんも仕事をしているのは一緒ですし、まして、松島にいる人にたまに来た少ない時間にあれを考えろ、これを考えろなんて言えません。私が決められるものは決めて、写メや家に帰ってからのメールで割と済ませられましたよ?」
本当は、一緒に考えて欲しい、一緒に見て欲しいと思わなかったわけではないが、空井にそんなに負担をかけたくなかったのだ。
頼めば否とは言わず、極力時間を作って協力してしまうだろう。それは極力避けたかった。
一人で打ち合わせを何度も行い、それを空井に報告するだけでも十分、幸せは感じられる。
だが、片山は、そういうことに決断できないというより、興味がなかったわけだが、それでも彼女と一緒に何かをするというのは楽しかったから、リカにまかせっきりだろと、半分眠りそうな空井の頭をはじく真似をした。
「いや、こういうのは彼女と一緒に行って、一つ一つ、何かを決めるところからが大事なんだ。稲ぴょん、やっぱり空井を甘やかしすぎだよ」
「それもわからなくはないんですけど、私が普段我儘を聞いてもらってるから、このくらいは……」
仕事を辞めて空井についていくという道もあった。だが、リカは仕事を続けたいという我儘を通し、空井はそれを許した。
それだけでも、リカは十分甘やかしてもらっている気がしている。
ぎゅっと抱き寄せていた腕の力が増して、その苦しさに、うっとリカがもがいた。
「いーんですよ。りかぴょんの我儘なんて、かわいいもんですからっ」
「大祐さん……」
「ん~っ、リカぴょんかわいいっ」
ぎゅっと抱きしめてリカの首筋に口づけたと思ったら、あっという間に空井の瞼が落ちた。
「よーやく落ちましたね」
「えっ?!やだ、大祐さん、寝てる?」
「すぐに目を覚ますでしょうから、もうしばらく稲葉さんはそのままで我慢して下さい」
よっこいしょ、と立ち上がった比嘉が、リカを抱きつぶすように締め上げていた腕を緩めるとその場に座布団を丸めて枕にして、空井を横にならせた。
「なんなんですか、もう……」
鷺坂や比嘉の前で、おおっぴらに可愛いと言われ、ぎゅうぎゅうと抱きしめられた挙句、当の本人が寝落ちとは。
顔を赤くして、呆れた顔でため息をつくのが精一杯だ。
不意に、鷺坂がグラスを差し出す。
「稲ぴょん、飲んで。空井もさ、しばらくは幸せだ―ってことで舞い上がってたんだろうけど、今はさ。少し自覚が出てきたんじゃないの」
―― 自覚?なんの?
わかりやすい顔をしたリカに比嘉が優しい顔で微笑んだ。
空いた片山のグラスを持ち上げると、おかわりは?と問いかける。頷いた片山の分と、鷺坂の酒を頼んで少し冷めかけた卵焼きを一口食べた。
「片山さん。片山さんはまだ、あれですか。彼女さんと一緒にいて、幸せいっぱいでしょう」
「お?おお。なんだ急に……。ま、あれだ。幸せなんだよなぁ。顔見た瞬間に、ほっとするんだよ。一緒にいるんだなぁって」
「わかります。とてもわかります」
静かに頷いた鷺坂と比嘉にも覚えがある。
腕の中に想う相手がいるということが夢のようで、幸せなのに、実感が薄くて、目が覚めたら嘘なんじゃないかという漠然とした不安を感じて。
「じゃあ、片山さんは早く、彼女さんのところに行ってあげてください。明日は早いんでしょう?」
リカ達と同じように、今は片山も遠距離恋愛中である。式を挙げる頃には彼女は仕事を辞めて片山についていくことになっているので、今は仕事も引継ぎやら何やらで忙しいらしい。
そんな最中でも、片山がこうして無理に時間を作ってくると、彼女の方もできる限りのことをして待っているという。
「いや、でも今日はさ」
「我々なら構いませんよ。次の打ち合わせの話もできましたし、まだまだ式まで話を詰めることもありますから」
片山自身が礼をかねて、一杯と言い出したのだが、元々、片山のことは早めに帰してやるつもりだった。
その場で、珍しくも恐ろしい速さで潰れた藤枝と、その後ろでさらに潰れた空井を見比べて、時計を見る。時間からすれば、店に到着して先に飲み始めていた空井はまだしも、藤枝は1時間の短時間で話すのと同じペースで飲んでいた。
「藤枝さんもちゃんと帰るときにタクシーに乗せますから大丈夫ですよ。いざとなれば男性ですしどうとでもなります」
そこまで言われては、もう仕方がない。すんません、と手を挙げた片山が携帯を手に、鞄を掴むと立ち上がった。数枚の札を比嘉に託すと、鷺坂に頭を下げて片山は店を後にする。
帰り際、藤枝の肩に手を置きかけて、結局触れずに帰ってきた。
さすがに片山にさえ、薄々察しがついた。
普段はどうということもなく過ごしていても、こうして、リカを女として実感させられて、まして、それが空井のためだと目の前で突き付けられれば、一日たまった鬱憤も吹き出すだろう。
―― 俺が口出す話じゃねぇな
男同士はこういう場合、驚くほどクールに立ち入らない。まして片山と藤枝は、ここ数年で付き合いができた間柄だ。大人同士、余計なことには踏み込むときと踏み込まない仁義がある。
「さーて、愛しの彼女の家にいくぞー!」
呟いた片山は通りを渡ったところで手を挙げた。
片山が出て行ったあと、比嘉は、穏やかな笑みで運ばれてきた油揚げをぱくりと口にした。先ほどから鷺坂と同じく冷酒に切り替えている。
「僕の奥さんのこと、お話したことなかったですよね」
「ええ。あ、造り酒屋がご実家だっておっしゃってましたよね」
こくりと頷くと、ちらりと鷺坂を見返りながら口を開いた。
鷺坂にもあまり詳しく話したことはないのだ。
「僕がうちの奥さんと出会ったのは、僕が片山さんと一緒に小松にいた頃の話なんです」
たまたま、合コンに友達に頼まれてきたという嫁と出会った比嘉は、初め、自分には高根の花だと思っていたらしい。
「僕よりも、奥さんの方が背が高いとか、奥さんの実家は造り酒屋と言っても、そちらの方面ではいわゆる地方の名家でしてね。もう、付き合うことになった時は舞い上がってしばらく仕事も手につかないくらいでしたよ」
「比嘉さんがですか?!」
「ええ。もう、若かったのもあったかもしれませんねぇ。と言っても、僕らは結婚して6年かな。そのくらいなので振り返るとあっという間なんですけど」
話しながらもきちんと周りを見ている比嘉は、鷺坂とリカに酒を勧めた。