艶色と桜色の春 ~九分咲き

朝早く、大祐がまだ眠っている間にそっと家を出たリカは、初めコーヒーショップに入って、眠い頭を覚ますつもりで大きなサイズのコーヒーを飲み始めた。
とはいえ、甘いシーズン物を朝からそんなにたくさんは飲めはしない。

「……朝早くからなんなの」

目の前に現れた藤枝を前に、リカは頬を膨らませた。

「呼びつけといてその顔、何」
「……おはよう」
「はよ。何。何事?」

仏頂面で腰を下ろして、こき、と首を鳴らした藤枝に、リカは唇を尖らせてぼそりと呟いた。

「……家にいたくなかったんだもん」
「子供か!」

速攻で返った突っ込みにぷいっとそっぽを向く。

いかにも面倒くさい、と舌打ちした藤枝は目の前にコーヒーを置く。

「もう少し優しくしなさいよ!女子相手に」
「女子じゃねぇよ、こんな奴」
「うるさい。んで、何があった」

想定内のやり取りの後、藤枝の問いかけにしばらく黙っているなと思いながら、コーヒーを飲んでいるといつになっても口を開く気配がない。顔を向けた藤枝の前で、横を向いていたリカの目からぽろっと涙が零れ落ちた。

「えっ……、おい……」

驚いて身を起こした藤枝はその顔を覗きこんだ。

「とりあえず、稲葉。お前が話さないとわかんないだろ。何があったんだよ」

口を開くと、どっと泣き出しそうで、深く息を吸い込んでからゆっくりとため息を吐いた。

「……異動、あるかもしれなかったらしいの」

ぽつり、ぽつりと話しだしていくうちに、少しずつ勢いが止まらなくなって、最後のほうは感情的になっていることはわかっていても自分でもどうしようもないような感じになった。
それを黙って藤枝は話を聞いた。

「……はぁ」

鞄からハンカチを取り出して、顔を抑えたリカを前に、藤枝はなんともいえない顔になる。

「……いいの。笑っても」
「いや、笑ったりはしないけど、なんていうか……」
「私だってわかってるわよ。……空井さんがそんな風に思ってるなんてことはないと思うんだけど」

それを聞いていた藤枝は、しばらく考えたあとで口を開いた。すでにコーヒーは空になっている。

「稲葉。お前、自分でもわかってて……。いや、俺たちが何か言っても仕方ないだろ?とにかく、今日は早くあがって家に帰れ。そんで、言いたい事いったら、空井君の話もちゃんと聞いてやれ。男は女に泣かれるのは弱いんだよ」

たとえお前相手でも、な。

薄っすら動揺してしまった自分を恥じているのか、言うだけ言って、ちらりと腕時計を見ると、立ち上がる。

「いいか、絶対だからな。今日は残業なし。必ずまっすぐ帰れ」
「……わかった」
「んじゃ、俺先にいくわ。いいな?絶対だぞ?」

しつこいくらい言い置いて、先に藤枝はコーヒーショップを出て行った。
藤枝が出て行くのを見送ってから、リカは携帯を出してため息をつく。

大祐からは今どこにいるのかと、今日帰ってから話をしようと書かれていた。

―― なんでこんなに落ち着いてるのよ

心配ならもっと取り乱してもいいだろうに、夕べもリカに言われるままに大祐はうなだれてソファで眠った。
泣き出したから、そのまま眠り込んでしまったリカが明け方、気がついたときには長身を丸めるようにして少し狭そうだったが気持ちよさそうに眠っていた。

少しでも心配だったら眠れずにいてもいいのに、と意味のない八つ当たりを覚えたリカはそっと音を立てないように支度を済ませて家をでた。起こさないようにしておいて、気づいてもらえなかったことが余計にリカを苛立たせた。

頭ではわかっているのに、馬鹿なことをしていると思う。
大嫌いといって、自分自身が一番傷ついた。

「はぁ……」

腕時計をみればそろそろリカも局に向かわなければならない時間だ。

藤枝に言いつけられたとおりにするのもしゃくに障るが、リカもこのままでいいとは思っていない。今日はなるべく早く帰ろう、と心に決めた。

そんな日に限って、仕事は終わらないもので、すっかり遅くなってしまったリカは足早に家に向かう。マンションの下から見上げれば、部屋の明かりはついているから大祐がもう帰っていることはわかる。

小走りにエントランスを抜けて、部屋に向かった。

鍵を開けてドアを開くと、ふわっと部屋の空気が包み込んでくる。
少し息があがりながら、ヒールを脱いで部屋に入ると大祐がソファに座っていた。

「……ただいま。こんな、遅くなるつもりじゃ……」
「お帰り。落ち着いてよ」

穏やかな笑みを浮かべた大祐が立ち上がる。
慌てた様子のリカを見て、ぽんとその肩に触れた。

「着替えておいでよ。晩御飯は?」
「……あ、まだ」
「そか。俺、軽く済ませたから何か作ろうか」

そういって、Tシャツの袖をまくりながらキッチンに向かう。
なんだか拍子抜けしたリカは、はあ、と気の抜けた返事をして着替えに向かった。

大祐が用意してくれた夕食を済ませて、洗い物だけは自分がといって、済ませたリカはひどく気まずい気分でソファの傍に腰を下ろした。

「あの……」
「うん?」
「……遅くなってごめん」

ふっと笑った大祐は、軽く首を振った。

「帰って来ないなんてことはないと思ってたから気にしてないよ。それより、俺のほうこそごめん。夕べは酔っ払ってたのかな。誤解させた」

―― 誤解?

黙って頷いたリカはきゅっと口元を引き結ぶ。膝の上で両手を組んだ大祐はリカに視線を近づけるように前かがみになった。

投稿者 kogetsu

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