離れている距離

小さな約束事を少しずつ二人で決めたはずだった。
片方が休みで移動するときはどうするのがいいか、携帯にメールしていい時間、携帯を同じものに変えたり、無理をしないことを前提にした小さな約束だった。

何度目かの往復で互いにいくらか慣れてきた頃。

週末の休みを利用して今回は空井が東京に来る番だった。金曜の夜について、日曜の夜に帰る。
スーツに少しの荷物を持って東京駅に着いた空井は、腕時計を見た。

新幹線の中で、何時頃に着くのかメールを送ったところ、終わるはずだった仕事が少し長引いていて、東京駅へ迎えに行けなくなったと返信が来た。じゃあ、かわりに近くまで迎えに行くと送っておいたのだ。

忙しいのか、その後の返事が来なかったが、帝都のそばまで向かうつもりで電車に乗ろうと歩きだした処に、携帯が鳴った。

社の近くは恥ずかしいので、先に家に行っていてくれと書かれている。

―― ああ、そうだった

一度、彼女は職場で辛い立場に立たされていたことがある。
局まで行かなければ大丈夫かと思ったが、やはりそういうわけにはいかないらしい。自分の方が配慮が足りなかったと思い、すぐわかったと返す。

今日は、気分が落ちているから少しでも早く彼女に会いたかった気持ちが、少し先走った。

上がりかけた階段を下りて、違う路線に向かう。
胸の奥に重い鉛を抱えたような気持ちは、いつもなら一人で折り合いをつけていたはずなのに、今日だけは違った。たまたま、こちらに来るために浮かれていた日の出来事だったから、気持ちを引きずったまま来てしまった。

だから、失敗した。およそ350キロ。
その新幹線の距離が、本当に離れているのだとわかっているつもりで見えていなかったのかもしれない。

リカの部屋の鍵を預かっていることは、いまだにどこか照れくさい。
自分の部屋の鍵と一緒にしているのに、いつも鍵を手にすると、片方の鍵だけを触ってしまう。

本人がいないのに、律儀にチャイムを鳴らしてから鍵を開けて中に入ると、お邪魔します、と呟く。ぱちっと灯りをつけて自分の部屋よりもはるかに広く感じる部屋に入ると、ソファの脇に鞄と荷物を置いた。

壁には白い備え付けの棚兼クローゼットがあって、その左下を好きに使ってと言われていたが、なかなかこの部屋に来てそれを使うのも気恥ずかしい。

ソファの正面にあるテレビをつけて、上着だけを脱ぐ。ハンガーに上着だけかけさせてもらうと、見るともなくテレビに目を向けた。

ぼーっとしていると、どこにいるのか忘れそうになる。一人で官舎にいる時も、部屋にいるときはほとんど帝都の系列局をかけっぱなしにしているからだ。
当然、地方局の番組が入ることもあるが、リアルタイムで放送されるものもある。

「あ……。これ、先週の分、あっちでまだ見てない」

1週間遅れで放送されている番組の、リアルタイムを見てしまって苦笑いを浮かべる。とんでしまった1週間分はあとでリカに聞いてみようと思いながら、それさえも楽しく思えてきた。

番組ももうすぐ終わるという頃になって、早足のヒールの音が聞こえてきて、あっという間に慌ただしく玄関を開けたリカが駆け込んできた。

「ああ!遅くなってごめんなさい。本当は駅まで行こうと思ってたのに!」

立ち上がった空井の目の前に立って、息を切らしながらごめんなさい、と深々と頭を下げたリカに軽く顔の前で手を振った。

「大丈夫ですよ。ほんと、お言葉に甘えて、ゆっくりさせてもらってました。それより……おかえりなさい」
「ちょ、ちょっと待って……」

大きく息を吐いて呼吸を落ち着けながら、リカは空井が荷物を置いたのとテーブルを挟んで対角線上に鞄を置いた。
ジャケットを脱いでハンガーに掛ける際に、一瞬リカの手が止まる。
空井の上着がかかっていたからだ。今まで、リカが言わなければソファの端に置いていたくせに、今日はきちんとリカの服の隣に掛けてある。

くすぐったいような気持ちで、空井の傍に行くと、改めてただいま、とはにかんだ顔で呟いた。

「あの!ご飯、どうしますか。遅くなっちゃいましたけど」
「あ、なんでもいいですよ。出かけましょうか?……あ、でも、リカさん、疲れてるでしょ」
「んー……。じゃあ、……よかったら、あんまりおいしくないかもしれないですけど、私が」

ぱっと嬉しそうな顔の空井を見ると、料理に自信がないのにと内心では思っていても、顔は笑顔で袖をまくる。
一応、冷蔵庫には空井が来ると思って、思いつく限り買い物をしておいたから何とかなるだろう。

多少、不細工なサラダと、ちょっと頑張ったお肉を焼いて、なんとか恰好だけはつけた。

「お待たせしました」
「いえ。嬉しいです!」
「……味の保証は……、ちょっと、ですけど」

テーブルに向かって直角に座ると、いただきますと手を合わせて箸をとった。本当に嬉しそうな顔で、箸を動かす空井にグラスを差し出してビールを注ぐ。

「じゃあ、改めて、今日は遅くなってごめんなさい」
「いえ、大丈夫です。リカさんのお仕事も大変ですよね」

いえ、と言うリカが、違うんです、と少しだけ困った顔をしている。グラスを手にして少し口を潤しておいて言い淀む。

「今日のはそういうんじゃなくて……。なんていうか」

リカ自身も迷いはしたが聞いてほしいというのもあったので、しばらく考えてから、番組の話ということで口を開いた。

「実は、今日長引いた会議なんだけど。少し先の話でね、夏の特別番組のことだったの」

夏は、どこも夏休みということで特番が多くなる。その中で、復興を取り上げた番組の一つが議題にあがり、局の中が少しもめたらしい。明るく、取り上げた番組の中では、元気に頑張っています、という雰囲気を前面に押し出すことになっていたが、反対意見もかなり出てきた。

現場に近い取材をしていればいるほど、明るく頑張っています、と言うだけではないことも、辛い現実だけではないことも、どちらの面を見ているスタッフたちがたくさんいたからだ。
無難な一面だけを押し出した内容では難しいという話になってしまい、話はまとまるどころかどんどん波及してしまう。
リカのいる情報局でもリレー形式で取り上げていたので、その方向感が決まるまでに時間がかかった。

「忘れちゃいけないとか、まだまだかかることも皆、わかってるんです。でも、こっちに住んでる人のほとんどが、過去のことになってしまってて……。もう、あまり身近じゃない人もいるので、どうしても距離があるんですよね」

さらりと触れたリカの言葉を聞いて、空井の目には昼間のことが思い出されていた。

話を聞くうちに、ぴたりと空井の箸が止まる。
何か、余計なことを言いそうな気がして箸をおくと、注がれたビールを口にした。

「どうかしました?」

ふと、黙り込んだ空井に気が付いたリカは、何か遠い目をしている空井が気になって顔を覗き込む。
なにか、口に合わなかったか、と思ったリカが首を傾げると、グラスを握ったまま空井の視線が宙を彷徨った。

「……本当に離れてるんですよね」
「えっ?」
「遠い……」

空井が何を言いかけたのかわからなくて、続きを待っていたが、難しい顔になった空井がそれ以上は口を開かなかったので、聞くに聞けなくなる。

何がまずかったのかわからなかったが、急にぴしゃりと目の前でドアを閉じられた気がした。リカはその空気の急激な変化が怖くなる。

食事が終わっても、眉間に皺を寄せて何かを考え込んでいる空井は、黙ったきりだった。

「あの……」
「ん?」

ソファに座って考え込んでいる空井の足元に座ったリカが膝の上に手を添えて心配そうに見上げる。

「私、なにか気に障るようなことを言ったのなら謝ります。震災のことは……、取材で聞いた以外では触れないようにしていたつもりだったんですけど」

実は互いにあの日からしばらく後のことはほとんど話していない。無事の確認と、その程度だけで。
だから、実は空井も東京にいたリカがどうしていたのか、詳しくは知らないままなのだ。

「ちょっと……、色々あって。すみません。今日は早く休みませんか」
「あ、はい……」
「本当に、わかってるつもりだったんですけど。僕と、稲葉さんは別々のところにいるんですね」

目の前に座る空井の膝に手を伸ばしかけたリカが止まる。

―― 今……、今の大祐さんは、“空井さん”になってた

“僕”といい、“稲葉さん”と呼んだ。
全身で拒絶された気がして、指先から血の気が引いた。

それ以上、何かを話すことなく、立ち上がった空井が、少しだけ慣れた部屋の中を横切って洗面に向かった。
顔を洗っているらしい水音を聞きながら、何がいけなかったのかと繰り返し頭の中で今日のことを思いだす。
結局、黙りがちな空井に先に休んでもらって、しばらくの間、ぼんやりとソファに寄り掛かって座っていた。
空井が眠ったらしい気配に、そっと起こさないように着替えを済ませて、隣に横になったが頑なに向けられた背中が寂しかった。こんな風に過ごすようになってから、二人の時は必ず寄り添っていたから余計に、なかなか眠れなかった。

そして、目が覚めたとき、隣で眠っていたはずのその人の姿は部屋の中のどこにもいなかった。

テーブルの上に白い紙が置いてある。慌ててベッドから起き上がったリカはテーブルに近づいた。

『すみません。今日は帰ります』

まだ早いうちに家を出たのだろう。リカも決して遅い時間に目を覚ましたわけではないが、いたはずの場所はとうに冷たくなっていた。

―― next

投稿者 kogetsu

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