平日の夜、9時過ぎ。食事を終えて、店を出たところで次を誘おうとした藤枝は、先手を打たれてしまった。
「藤枝さん。じゃあ、どうもありがとうございました。明日もお忙しいでしょうし、そろそろ帰りますね」
「あ-……あの、じゃあ、送りますよ。駅まででも」
―― 家まででも
さすがにその一言は言えなくて、言葉を切った。
出来ればもう一歩、親密になりたいところだが、西村にはどうしても踏み出せないでいる。
「いいえ。まだ電車ありますし、残業しているときより全然早いですから」
西村にさらりとかわされて、今日も無理か、と思った藤枝は何か引き留めるなりなんなりをしたくて、落ち着かなく腕を動かす。
手もつながず、恋人同士の距離ではない。それどころか、知り合い程度が関の山かもしれない。
藤枝と、リカがそれぞれの番組で取材をした後、藤枝は時々西村を食事に誘うようになった。
他の女性たちとは違って、普通の会社員である西村を誘うには少なくとも当日いきなりなんていう誘いはできない。事前に予定を聞いて、一番、彼女の残業が少ない日に、毎回店を予約して待ち合わせる。
今日も、そんな風に店を予約して食事を終えたところだった。
「あー……。じゃあ、うん、駅まで!駅まで行きましょう。僕も電車ですし」
「わかりました。じゃあ帰りましょうか」
それもあっさりと頷かれて左右を見てから駅の方角を目指して歩き出す。西村は言葉も、動きも、あっさりとしていてあまり躊躇を挟む余地がない。
肩を竦めて一緒に歩き出した藤枝は、どうすればもう少し引き留められるのだろうと苦虫を噛みしめる。
「んー……。西村さん、今週忙しいのは少し落ち着いたっておっしゃってましたよね」
「そうですね。比較的は」
「じゃあ……」
まだゆっくりできるんじゃないか。
そう言いかけた藤枝の横顔をちらりと見た西村の一言が藤枝のペースを崩してしまう。
「藤枝さんはお忙しいんでしょう?大変ですね。私達みたいに、月末月初とか、時期がきまってませんから」
「いや、そんなでもないですよ。なんだかんだ言って、あまりイレギュラーなことは入ってこないですし」
「そうは言っても色々ありますでしょうから、早めに帰ってゆっくりしてくださいね」
あ、はい、とうっかり答えてしまったところでちょうど駅にたどり着いてしまう。
「藤枝さん、ありがとうございました。おやすみなさい」
「あ、いや」
「じゃあ」
バッグから定期を取り出してさっさと抜けた西村は改札を抜けて行ってしまったが、藤枝にとって9時はまだ宵の口である。
振り返った西村が軽く会釈して去っていくのを見送ってから、思わず肩を落としてしまう。
「なにやってんだ、俺は~」
周りの目も気にせず、思わず叫んだ藤枝は、膝に手を突いてしばらくその場に屈んでいたが、気を取り直して何事もなかったように歩き出した。
―― このまま帰るなんてできるわけねぇだろ……
歩きながら携帯を操作して誰でもいい。誰かを呼び出そうとしたものの、いつもの彼女たちに声をかける気にもなれず、渋々いつもの店に足を向けた。
半地下の通いなれたバー。カウンターの真ん中に腰を下ろして、ビールではなく初めからジントニックを頼む。
無意識にため息が漏れた。
なにをやっているんだろう。
今まで藤枝の周りにいた女性たちとは大きく違う。
西村は普通の会社に勤めていて、残業も多く、夜といっても早い時間に帰ってしまう。藤枝自身は年齢を気にする方ではないが、自分よりもおおよそ一回り近く上である。
―― 俺がどうとかいう相手じゃないんだよなぁ
そのくらい嫌と言うほどわかっている。なのに、どうして自分は凝りもせずこうして誘ってしまってるんだろう。
「なん……かなぁ」
恋愛対象にもなれず、知り合い止まりで済むのかと言われればそうでもない。ただ、時々、うまい飯を食べませんかと誘う相手。
自分が何をしたいのか、ただ意地になって誘っているのか、それさえわからなくて。
「馬鹿だなぁ……。俺に純愛なんか向かないっての」
肘をついて、酔っぱらう気満々でグラスを煽る。今までなら誰か女の子を誘って、楽しく気持ちを切り替えて酒を飲んで、一晩遊んでもらえばそれほど引きずらずに済んだはずなのに、声をかけたい誰かも思いつかないなんて情けない。
二杯目もあっという間に飲んでしまった藤枝は3杯目をロックにした勢いで、カウンターに肘をついて、頭をのせた。
翌日、二日酔いを抜くためにペットボトルの水を持ち歩きながらげんなりした顔をしていた藤枝の背中のあたりに拳が当たった。
「うぁっ!」
「なんて顔してるのよ」
「稲葉、お前なぁ……」
背中をさすりながらリカを睨みつけた藤枝をふっと心配そうに横から覗き込む。
「本当にどうしたの?昨日、結構早く帰ったって聞いたけど」
残業していたリカが用事があって内線をかけたところ、とうに帰ったと聞いて、大した用事でもなかったからそのままにしていたが、デートであっても自分の仕事終わりに合わせて彼女たちと約束をするのが藤枝の流儀だったはずだ。
「お前に関係ないでショ?大体、俺が早く帰ったっていうより、お前こそ早く帰れよ。さっさと帰って空井君喜ばせてやれば?」
「うるさい。帰れる日はちゃんと帰ってるわよ!それより……」
言い淀んだリカに渋々顔を向けると、本気で心配をしているらしい。
真顔でじっと藤枝を見ていたリカがぐいっと片腕を掴む。
「いつでも話、聞くから!なんかあったら相談のるし」
「……はぁ? お前、何言ってんの?」
「だって……、あんた。昨日、もしかして西」
「あーっ、昨夜俺、飲みすぎたんだわ。ちっとトイレ寄ってくからこれ持ってって」
リカの腕にバサッと書類とペットボトルを載せると早々にその場を離れた。