結局、うまく逃げたつもりでもこの同僚はかなり頑固で粘る。散々粘られて、なんだかんだと言われた挙句、藤枝は今日も同じバーに足を運ぶ羽目になっていた。
グラスを傾けて、ちん、と乾杯した相手はひどく恐縮している。
「すみません。自分まで……」
「ほんっとね。どうにかしてくださいよ。お宅の嫁。俺は平気だって今日も楽しくデートの約束をしようとしていたのに、来なさいよ、でこれですもん」
すみません、と再び頭を下げそうになった大祐の腕をリカがグイッと引っ張った。
どうして大祐が謝らなければならないのだと、首を振った後、ロンググラスに注がれたビールを一息に飲み干す。
「大祐さんには関係ないでしょ! っていうか、私じゃ駄目だったら、大祐さんの方が話しやすいかもと思ってきてもらったのに、何、その言いぐさ!」
「リカ、ちょっと待って。そんな言い方したら」
「俺は、大丈夫なの。何の問題もない。平和が一番。無問題。そりゃ、久しぶりに空井さんと飲めるのは楽しいけど、小うるさいのが一緒じゃねぇ。どうです?空井さん、今度男同士で飲みましょうよ」
「あ、はい。もちろん」
そういうと、男二人で携帯を出し合って、いつがいいのと言いあっている。パスタを揚げたものに塩がまぶされたものをポリポリと食べていたリカは、しょうがない男達、とばかりに黙って見ていた。
「じゃあ、リカ。ごめん、この日、藤枝さんと飲みに行くね」
「わかりました。飲みすぎないようにね」
「うん」
ほんの一言、二言の間なのに、夫婦の会話になっていて、今度は藤枝の方が黙る番である。
三人分のビールをおかわりして、へらっと笑いながらも、頬杖をついた藤枝は、強引に連れてきたリカが、薄々は察しているのかな、と思う。
なにせ、あの後、DVDを借り受けて、わざわざ届けに行った。
今まで、藤枝がそんなことをしたことなどなかったこともリカはわかっている。
―― だてに付き合いが長いわけじゃないか
自分でも本当に意外すぎて、こんなにもたもたしてしまっているが、会いたい、と思ってしまう自分くらいとうにわかっていた。
ただ、それを自分でも認めるに認めきれないだけのことで、本当はわかっているのだ。
どこか稲葉リカという女に似ていて、もっと切ないくらいにまっすぐで。
気にするわけではなく、ただその年齢と共に、まっすぐでかっこいいなと思った。
―― 皆が好きで今まできたからなぁ
心の底に沈めていた思いがあったから、それ以外はどうでもよかった。
その心の中をざわつかせる何かがある。例えるなら、深い、湖に沈めた想いと、その湖面を揺らす風のようなものだ。
ちょっとお手洗い、と言ってリカが席を立ったところで、大祐が、すみません、と頭を下げた。
「藤枝さんには、いつもお世話になってばっかりなのに。なんかおせっかいみたいでもうしわけないなって。あれでも、すごく心配してるんです」
「……わかってますよ。かえって、空井さんまでひっぱり出しちゃってこっちこそ申し訳ない」
「あ、そんな、全然です。かえって久しぶりに藤枝さんと飲める機会ができて、俺も嬉しいですよ」
にやっと急にくだけた大祐は、藤枝のグラスに自分からグラスを当てに行った。
リカから藤枝の恋愛話かもしれない、と慌てふためいた感じで話を聞いた時にはにわかには信じられなかったのだ。
「そう?俺も久しぶりに飲めて嬉しいけど?」
タ・メ・口。
口には出さずに、グラスを持った人差し指でそう指摘すると、まいったな、と頭を掻いた仕草もだいぶ雰囲気が変わった気がする。
「一応、今日はリカが一緒なので。サシで飲むときは違うから」
はにかんだ顔も今ではしっかりダンナの顔になった大祐にこちらも受けて立つ。
「ま、いいけどね」
「そう?もっとガチで飲ませますよ?」
「うぉ、マジか。そこだけ男飲みなわけ?」
面白がって、片足を組みなおした藤枝の手元からビールのグラスを取り上げると、にやりと笑う。
「もちろん。次はロックですか?」
「……いや、やめとく。シャンディ・ガフください」
「藤枝さん?」
それはないだろう、と責める目にもひらひらと手を振ってかわす。
今日、この二人の前で酔う気になれないことくらいは伝わるだろう。
「明日、ちょっと早いしね」
「じゃあ、次回は」
「覚悟しとく」
男二人が和やかに頷き合ったところにリカが戻ってくる。
男二人が何やら同意している姿に、何よ、と早速噛みつくリカを、大祐が宥めにかかるのもみている分には安定の一コマだ。
「なんかさぁ。やっぱ、二人は一緒に暮らしてみてどうよ?なんか違う?」
ぴたり、と動きを止めたリカと大祐が顔を見合わせる。
タイミングまで揃ってきたような二人に、吹き出しそうになる。うーん、と唸っているリカに、さらりと大祐が口を挟んだ。
「違いはないですね。ただ、毎日、新しいことが嬉しいので」
「言うねぇ」
「事実なので」
慌てて止めに入るリカに、どうして駄目なの?という言い合いが面白くて、職場のネタを振ってやると大祐は面白いように食いついてくる。
「職場じゃ、澄ましてますけどね?丸わかりなんですよ。空井さんが好きだって言って、この前もレシピがどうとか」
「藤枝っ!!!」
今度は向かい側に座る、藤枝に向かって拳を振り上げたリカが勢い余って、グラスを倒してしまう。慌ててグラスに手を伸ばしても時すでに遅しで、テーブルを流れた酒は、藤枝の足元に跳ねた。
「ごめんっ!!」
「藤枝さん、これ」
慌てたリカよりも素早く大祐がおしぼりを渡して寄越す。仕事着のスーツではないから大した被害でもないが、膝の上をおしぼりで拭っていると、マスターが見ていたらしく新しいおしぼりと、ダスターを持って近づいてきた。
「お取替えしますか?」
「いや、大丈夫。逆にすいません」
テーブルを拭きながらグラスを持ち上げたマスターに、いや、と手を挙げた藤枝は、幾分、湿ってしまったパンツを軽く叩いてから、足の長いスツールを降りた。
「ったく。稲葉、ここ、お前のおごりな」
「……わかった。ごめん」
「もういいよ。空井さん、そろそろ、俺、帰りますよ。すいませんね。せっかく」
項垂れるリカには伝票を押し付けておいて、大祐にまた今度、というと、藤枝は大きめのバッグを手にじゃあ、とさっさと店を後にした。