「あの、電話って珍しいですね」
ああ、と電話の向こうで密かに笑う気配がする。
『ちょっとね、一つ大きな仕事が終わって、一安心したところなんです。……ていうか、ちょっと褒められたんでちょっと嬉しくてつい』
「へぇ。そんなに大きな仕事だった?」
『そう。すごく、久しぶりに大きくて、大変で……。って、そうじゃなくて藤枝さん。今週はお時間ありますか?金曜日の夜でも土曜日でも』
えっ、と驚いた藤枝は息が止まりそうな気がした。
「あ、あの、今週ですよね。今週……」
『ああ、忙しかったらいいんです。また今度でも』
「いや!あいてます、あけます!どっちでもいいんですけど、どっちがいいですか?」
『私はどちらでも構わないですよ。でも、土曜日だったら、藤枝さんのお休みを潰しちゃうし、デートの約束とか邪魔しちゃいませんか?』
妙な心配をする西村に、ああまた、と思った藤枝は時折、人が通り抜ける階段で声を上げた。
「そのデートの相手にほかの予定を心配されるのも変だから。じゃあ、金曜日の夜からあけといてください」
『え……?また、もう……。じゃあ、金曜日の夜に』
「わかりました。金曜の夜。場所はまた連絡しますよ」
どく、と大きく心臓が鳴っていた。生放送よりもはるかに緊張する。
じゃあ、と言って携帯の通話を切った藤枝は、耳元から携帯を外すと笑いそうになった。
「手、震えるって俺、どんだけ緊張してんのよ……」
手の中で温まった携帯が確かに今さっきまで会話していたことを証明していた。純愛なんて馬鹿にするだけ馬鹿にして、リカと空井のことはまるで中学生のようで、そんなことは自分にはありえないとさえ思っていた。
片山の恋愛相談もどこか他人事で、ゲームの攻略くらいの感覚だったし、大津と珠輝の二人にしても相談に乗っていても思いのほか真面目な様子に見ている方が恥ずかしくなるくらいだと思っていた。
どこかで。
自分にはそんな想いなどないと、思い込んでいた。
「は……」
あいた掌を眺めてからぎゅっと握りしめた。
たった二日。
されど二日。
待つ間も長かったが、この二日の方がもっと落ち着かなかった。
いつも通りのつもりでもワイシャツは淡いピンクのストライプを選んでいた。砂の上を歩くような一日は、長いのか短いのかよくわからなかったが、なかなか携帯を見るのが辛い。
昨夜の内に、待ち合わせ場所と時間は連絡してある。
仕事終わりと共に着替えて局を出た藤枝は、メールを打った。
『仕事が終わったのでこれから向かいます』
はあ、と息を吐くと、心が揺れた。電車に乗るところで携帯が震える。
『お疲れ様でした。私もそろそろ終わりますので、待ち合わせには間に合うと思います。楽しみにしていますね』
よしっと、いいそうになった藤枝は小さく拳を握ってから携帯を手にしたまま、待ち合わせの店に向かった。
人気の立ち飲み店だが、予約をすると奥のテーブル席が取れる。藤枝はそこに予約を入れていた。連れが来るまではと立ち飲みのカウンターでビールを飲んでいると、人をかき分けて西村が隣に立った。
「よかった。藤枝さんが見えなくてちょっと焦りました。待ちました?」
「いいえ。すぐわかりました?」
「ん、一本、道間違えて向こうから来ちゃいました」
西村が隣に立ってから、藤枝の体温がすっと上がった気がする。飲んでいたビールのせいだと思いながら店員を見つけると、ジョッキを持ってテーブル席へと移ることを伝えた。
席に座ってから向かい合って、今日初めて顔を見合わせる。髪を下ろした西村は、いつもよりも童顔で柔らかい雰囲気に見えた。
「お疲れ様でした。何飲みます?」
「ビールで。もう藤枝さん、もう飲んじゃってるし」
ちょいちょいっと指先で藤枝のジョッキのヘリを撫でた西村は、ぺらりとしたメニューに手を伸ばした。
「うわ、どれもおいしそう。藤枝さん、苦手なものは?」
「ほとんどないですよ。いつものように好きなものオーダーして」
何度か一緒に食事をするようになって、藤枝の好き嫌いはあまりないことはわかっている。そして、店を知っているのは藤枝の方だが、圧倒的に食べることを楽しむのは西村の方だということもあって、何となく、アラカルトにオーダーできるときは、西村にオーダーを任せることが多い。
「じゃあ、ビール一つに、生タコのカルパッチョにこのサラダと……」
それほど広いテーブルではないだけに、いくつかオーダーすると、ビールだけはすぐに運ばれてきた。西村がグラスを手にすると、ひとまずとジョッキのふちを合わせる。
「お疲れ様でした。せっかく誘ってくださってたのに、遅くなってごめんなさい」
「いえいえ。お仕事お疲れ様でした。どんな仕事だったかは知らないけど、打ち上げ代わりに」
酒に弱いと言ってほとんど飲まない西村がスタートからビールを頼むことは珍しい。藤枝が一口目に飲み干す量の半分にもいかないくらいの一口を飲むと、久しぶりに飲んだ、と呟いた。
「そういやそうだね。俺、西村さんが飲んでるのを見たの、数えるくらいじゃないかな」
初めて会ったときと、あと何度あっただろう。そう思いながら口をつけていたビールを煽る。
「で?西村さんが俺に電話をくれるほど大きな仕事ってどんなだったの?」
話せる限りでいいから、といつものように前ふりをすると、笑みを浮かべた西村の距離感が随分縮まっていることを感じる。
「んと、大きな会社のシステム入れ替えだったんだけどね。大きいとやっぱりいろんな部署が関わっていたり、調整以外のこともたくさんあるの。それをできる範囲で、できること、できないことに振り分けて進めていくんだけど、部署も多くてほんっと大変で……」
「ああ。まあそういうのはあるよね」
うっかりとそう口から出てしまったことをしまったと思う。西村は大人でひどく察しがいいのか、こんな風に話を聞きたくても下手な同意をすると、すぐに引いてしまうのだ。
ありがちなことを十分わかっているからもある。
そのまま、また引いてしまうかと思ったが、今日は変わらなかった。
「あるでしょう?うちのチームだけじゃなくて3チーム集まっての対応だったんだけど、お互い普段は一緒に仕事してないしチームごとに張り合っちゃうし!」
決して当たり障りのない範囲で、どう聞いてもどこにでもありがちな話ではあるが、すごく大変だったのだと力説する西村の話を聞くことができるのが楽しい。
運ばれてきた皿を前にしているのに話の方に夢中になっている。
「うちは……って、藤枝さんは取材に来てくれたことがあるからわかるかもしれないですけど、あの通り、腕はいいけど、ちょっと変わってるから」
「仕事したわけじゃないから本当はわからないけど、西村さんのことは皆さん、信頼されてるみたいだったからいい仕事になってよかった」
「私、そんなじゃないですよ。逆です、逆。仕事ができないから皆がしょうがないなぁって助けてくれるんです。こんな上司でごめんなさい、って感じ」
そんな風に笑う西村の様子が打ち解けてくれているのだと伝わってきて、ただ、藤枝には嬉しかった。
―― 馬鹿みたいだっておもってたんだけどな……
誰かと一緒にいて可愛いと思うことも、仕事の愚痴を聞いて面倒だと思うことも、女の子たちはそれぞれにいろんな顔を見せてくれていた。なのに今は、その顔を見られる自分がひどく嬉しくてたまらないなんて、舞い上がりすぎだ。
「こんな話、つまらないでしょうけど、藤枝さんに話せてよかった。ほんの少しだけね。認められたのが嬉しかったの」
「―-……」
本当に嬉しそうに笑った西村の顔を見た藤枝は、ゆっくりと目を瞬いた。