自分でも笑い出しそうなくらい馬鹿なひと言だと思っていると、目を丸くしていた西村が、ふわぁっと表情を崩した。
「衝動的ですねぇ。きっと、一瞬そんな風に思えているだけですよ。私みたいな女にそんなことを言っちゃいけません」
「え……、なんでそんな……」
「あのね……」
聞き分けのない子供に言い聞かせるような当惑した色を浮かべた西村が何かを言いかけたところに、酔っ払いのサラリーマンらしき数名が通りかかる。互いにはっと我に返ったように、手を離して道の脇に不自然にならないように避けた。
「とにかく……」
「わかった。わかりましたから、とにかくちゃんと話をさせてください。行こうと思ってた店でもいい。いや……」
手を差し出した藤枝はお願いだから、と口にする。
「絶対、何もしませんから、うちで話せませんか」
首を振って一度は口を開きかけた西村は、藤枝の顔を見て、何度か口を開きかけたものの、呆れたように笑って首を振った。
「それ、普通だったらよっぽど馬鹿な女ですよ?」
「そうかもしれないけど、でも絶対」
「ストップ。藤枝さんも自分の知名度を理解すべきです。この前も写メとられたとかツイートされてたって言ってましたよね?私も仕事柄その手のことも知らないわけじゃないので、とりあえずそのお店がある程度常連で静かならそちらへいきませんか」
どこまでも冷静な西村がひどく狡いような気がして、子供じみた悔しさに噛みしめそうな唇を歯でなぞる。
―― なんっで……情けないの、俺……
この余裕のなさと、落ち着いていて、冷静な間がそのまま西村との距離と、年齢の差と、色んな差を突き付けられているようだ。つい勢いで掴んでしまった手を逆に掴まれた。
「とりあえず痛いので、手を」
「あ」
悔しいとか、狡い、とか、情けないとか。
想いがそのまま掴んだ手に籠ってしまったようで加減を忘れていたと今更になって気付く。その手を温かくて柔らかな手が離させた。
「どこですか?」
「……向こうに」
足元に視線を落とした藤枝がそう答えると、西村は向かいかけた駅とは逆の方向へと歩き出した。藤枝は自分の手をそのまま西村に預けたまま、後について歩く。
「ちょっと意外」
「……?」
「藤枝さんは、捨て身なんてしないと思ってた」
―― 捨て身……。これ、捨て身っていうのかな
ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていると、ふと店の方向を通り過ぎていることに気づく。
「お店の中で泣きだされたら困るでしょ。そんな今にも泣きそうな顔で」
そういって、さっきタクシーを降りてから見上げただけの藤枝のマンションの下に的確にたどり着く。オートロックの前まで来て、西村は藤枝を振り返る。
バッグから鍵を取り出した藤枝は素直にキーを回してオートロックを解除すると、ガラス扉が開いてエレベータホールに向かう。上に向かうボタンを押した西村と一緒に開いたエレベータに入って、無言で階数ボタンを押す。フロアについて、開いたエレベータから先に藤枝が下りて、自分の部屋の前へと西村と共に歩いて行って、鍵をあけた。
「……すみません。お誘いしておいてなんですけど、すごく散らかってて」
「大丈夫です。入りませんから」
いつの間にか離されていた手はそのままにに玄関の中に藤枝を送り込む。
どこかでわかっていた気がしたのに、藤枝は振り返った。
「藤枝さん」
その先に何を待っていたのかはわからないが、だんだん、西村の顔をまともに見られなくなっている気がして、何度も瞬きを繰り返した。
「藤枝さん。ありがとう。光栄です。でもね、藤枝さん。きっと藤枝さんの周りに今までいなかった種類の私を見て、興味を持っているだけだと思うんです。だからね。それに惑わされちゃ駄目。私はあなたよりも年上で、ものすごく面倒くさいんです。一瞬の感情に惑わされちゃ駄目なの。……じゃあ、おやすみなさ」
なんでこんなに冷静なの。
「なんで……」
なんでばかりだ。
そう思いながら、手を伸ばして西村を引き寄せた藤枝は、ぎりぎり玄関のドアの内側に引き込んだところで抱きしめた。
ぴたりと言葉を切った西村の耳元に藤枝の声が届く。
「なんでそんなに冷静なんですか。俺なんかじゃ少しも響きませんか。俺じゃあ……」
ドアの力を借りて、背後への道を閉ざして、抱きしめたところから、少しずつ冷静さが移ってくる。
なんだかんだと自分よりも頭のいい人なんだろうとか考えていたのに、こうして抱き締めるとただ、華奢な女性で。ぴくっと背中の筋肉が動いたのを感じて、全く聞いていないわけではないことはわかる。
「冷静すぎるでしょ。普通、男に言い寄られたら少しくらい動揺するでしょ」
「……藤枝さん。帰ります」
「嫌です。まだ話してない」
「離してください」
少しも、自分の言葉は西村に届かないのかと思いながら、腕から力を抜いた。
その瞬間、大きく息を吸い込んだ西村を感じて、あれ、となる。
「西村さん。西村朋さん。ごめん。何もしませんって言ったのに、約束を破りました」
見失っていた西村の顔を至近距離から覗き込むと、目を伏せた西村は、後ろ手にドアを開けた。
目の前で閉まるドアから出ていく姿を追えないまま、閉まる直前に緩やかになったドアが閉まるのを黙って見ていた。