アナウンス部のあるフロアには中央に吹き抜けがある。ベンチに腰を下ろしていた藤枝の上には黒い雲が浮かんでいると思うほど、どんよりとした空気が漂っていた。
あちこちのフロアを歩き回ってようやく藤枝を見つけたリカは、ガラスの扉を押しあける。
「藤え」
リカが声をかけようとした瞬間に藤枝は顔を見もせずにさっと手を挙げた。近寄るなとも、何も言うなともとれるその仕草にリカも、さすがにそこから先に進めなくて足を止める。
とっくに空になっていた紙コップを握りつぶすと、腕時計を見て立ち上がった。少しの合間があくと考えてしまう。だから、無駄に考え込まないように、何時までリミットがあるのか時計を見て確かめておいて、ここで時間を潰していたのだ。
あれから、どうしていいのかわからないまま時間だけが過ぎていた。
目の前で閉まったドア。
それを追いかけるなんて、今までなら何とも思わずに追いかけて相手を宥めていた。時には面倒でそのまま帰ってしまうこともあったが、大抵が相手の方から連絡が来ていたし、それで縁が切れてもさる者追わず。
遊び相手が一人減ったくらいにしか思っていなかった。
なのに、あの時は、怖くて足が踏み出せなかった。
拒否されたのかさえ確かめることが怖くて、一歩踏み出したままの藤枝は行き場を無くしていた。
そこから連絡を取ることもなく、連絡も来ることはなくて、どんよりしたままで過ごしている。
いつもの藤枝ではないことは、周りにも伝わっていて、普通に仕事はこなしているし、プライベートなことにあえて踏み込む者もいない。そのまま十日が過ぎていた。
握りつぶした紙コップをゴミ箱に叩き込んでリカの顔を見ずに吹き抜けからフロアへと戻ろうと歩き出す。すぐそばをすり抜けた藤枝を、リカは我慢できずに呼び止めた。
「ねぇ!そんな顔してるくらいなら」
「……お前に関係ない」
「ある。……あるよ。私が、ずっと空井さんと離れて苦しんでた時、藤枝が話を聞いてくれたじゃない。私でだめなら大祐さんでもいい。そのくらいさせてよ」
「馬鹿か……、ありえねえだろ」
男が普通、女に恋愛相談なんかするものか。
くるりと振り返った藤枝は眉間に皺を寄せてリカに向けて吐き捨てるように言った。
「学生じゃないんだ。人のプライバシーに首突っ込んでくるんじゃねぇよ」
「だって!……今の藤枝が、藤枝らしくないの、自分が一番よくわかってるでしょ。そのくらい好きならちゃんと伝えた?そうじゃないなら」
がん、とガラス戸のフレームに腕を当てた藤枝に、びくっとして思わず言い淀む。
「……ほっといてくれ」
それだけを言うと、藤枝はフロアに向かって歩き出した。ガラス越しに廊下を歩いていく姿を目で追いかけると、不似合な皺を寄せたままで不機嫌な時の癖の唇を尖らせたままで廊下の先へと消えて行く。
残されたリカは、肩を落として自分の体を抱くように腕を回した。
少し前は、見ていてわかるくらい浮かれていた藤枝が、急にぱったりと落ち込んでいるらしいのはすぐに分かった。
西村に振られたのかと思ったが、それならいっそ、藤枝なら諦めも肝心だと切り替えそうな気がしたが、どうもそうは見えない。様子を聞こうにもこの通りで取りつくしまもないので、珠輝や同期の面々も心配していた。
普段はメールを寄越すなんてほとんどないともみさえ、あれがどうなっているのかとリカに連絡してきたくらいだ。
「みてられないんだってば……」
結局、一番突撃しやすいだろうということでこうして藤枝のもとに来たのだがやはりだめだった。
これではろくな報告ができない。片山が出張できているからと呼び出しを受けていたのだ。
仕事明けにりん串に顔を見せたのは懐かしい顔ぶれだった。片山に比嘉、それに槇と柚木、そしてリカと大祐である。
「で?なんだ、チョメ山。お前自分が嫁もらったからって人の話に首突っ込むようになったのか?」
「だから、チョメ山じゃねぇっつーの。古い呼び名持ち出すなっての」
「うるせーんだよ。呼び名って自覚あんじゃねーかよ」
あいも変わらずの毒舌な柚木にこちらも変わらずの片山が応じる。体が鈍ると言って、産休明け早々に復帰した柚木は相変わらずのスタイルで、鍛えてもいるらしくバシッと片山の肩を突いた。もともと細い柚木だが、顔立ちが以前に近くなってきている。
「んで、稲ぴょん。なんで藤枝ちゃん、連れてこなかったんだよ」
「ん……、それがちょっと……」
片山にどこまで藤枝が話しているのかはわからなかったが、今日一緒に飲もうという誘いのメールには返事が来なかったらしい。片山からリカには、藤枝が忙しいのか連絡が来ないから一緒に連れてくるようにと連絡が来ていたのだ。
「なんだよ?なんかあんの?」
困った顔で大祐と顔を見合わせたリカは、迷った挙句、ちょっと忙しくて、と言葉を濁した。
酒を飲んでいるうちに、席を移動しはじめて、リカは柚木の隣に座る。
「……で?藤枝がどうしたって?」
「ぐ……。柚木さん鋭い」
「あんなので誤魔化されるの、チョメ山だけだっつーの」
チューハイのグラスを片手に、ぼそぼそと話し始めたリカは、藤枝と西村の話を始めた。
「……そういうことで、藤枝が西村さんのことを好きみたいなんですけど、その後が……」
「なるほどね。藤枝ちゃんに本命ねぇ……」
意味ありげにちらりとリカの顔を見たが、何も言わずにビールを飲んだ。
「なんかねぇ……。うまくいってほしいんですけど、藤枝に西村さんの気持ち、わかるのかなぁって」
「どゆこと?」
「だって……、ねぇ」
「まあ、藤枝ちゃんにはそこはわかんないだろうなぁ」
女二人が頷き合っていることはおそらく男性にはわからないだろう。
こればかりは、横から口を出さない限り、どうにもならないかもしれないとも思う。だが、放っておけなかった。
「稲葉……、じゃない。リカ。あんたさ」
「わかってます。でも」
「だったら余計なことするな。こればっかりは横から口出したってしょうがないんだよ」
「……それは、大祐さんにも言われました」
心配しているリカに大祐は、思いのほか強く言って来たのだ。
「心配なのはわかるけど、リカ。リカは何もしちゃ駄目だよ」
「……え、あの」
「リカのことだから心配してその西村さん?とかに会おうとしたりしちゃ駄目だよ」
「なんで……っ」
「駄目なものは駄目。いいね?」
自分も不器用で、人の機微に疎いことは自覚があったがそれ以上にリカはまっすぐすぎる。まっすぐな気持ちが時には、いい方に転がすこともあれば悪い方に転がることもある。
大祐にそこまで言われていては、西村に連絡することもできず、気を揉むしかできない。
「……どうにかできないかなぁ」
今日はあまり飲んではいない方だからこそ、何ともいえない気分で男同士で盛り上がっている大祐をみた。