「さむっ」
仕事明けの平日の夜、こんな日にはどこかの店に行って、うまいものでも食べていた方がはるかにいいはずなのに、藤枝は冷え切った道路脇にいた。帝都の前とは少し違うが、都内の大きなビルの足元に緑地が義務づけられていることがある。
緑地と言っても、ビルの足元の一区画が避難場所兼用なのか、ビルの壁と同じタイルでできた広場になっていて、そこをにちりばめるように植え込みが置かれていた。
ところどころにベンチが置いてあったが、この冷え込みの中で石のベンチに腰を下ろすのは余計に冷える。
高いビルを見上げると、まだあちこちに電気がついていた。
今何時だろうと携帯を見ると、思うより時間は進んでいない。もしかして今日は会えないかもしれないと思いながらも、藤枝はその明かりを見上げていた。
鞄の中には送り返されてきたDVDが入っている。
夜が長いなんて思ったことがなかったと思っていると、携帯が鳴った。
メール着信画面にリカの名前が表示されている。
「……なんだよ。あのおせっかい」
画面をタップすると、そこにはさらりと一文がかかれてあった。
『もうすぐ西村さん、仕事終わるはずだから!』
ふっと、思わず笑みが浮かんだ。昼間、返されたDVDの話をしたからかもしれない。とことんおせっかいな奴だと思いながらもその場から動き出した。
ビルの正面が見える場所に移動して、傍に立っていると、しばらくしてちらほらと帰っていく人の中で鞄を肩にかけて俯きがちに歩いてくる姿を見つける。
まじまじと見つけられたなぁと思って眺めていると、周囲へ何気なく向けられた視線が驚いて止まった。
パンツのポケットに手を入れたまま、ゆっくりと立ち止りかけた西村に近づく。
「こんばんは、西村さん」
「……こんばんは。藤枝さん。何やってるんですか?まさかこんなところで待ってたんですか?……困った人」
ため息をついて首を傾げた西村は不意に手を伸ばして藤枝の腕に触れた。
すっかり冷え切った腕に困った顔をして、そのまま掴んで歩き出す。
「風邪ひくじゃないですか。一体、いつからいたんですか?」
「たいして待ってないですよ。大丈夫です。それより」
「とにかく先にお茶でもしましょう。温まるのが先です」
駅に向かって藤枝の腕を掴んで歩きだした西村は知っている店があるようだった。周りにも居酒屋や飲食店が並ぶ中で雰囲気の良さげなカフェに入っていく。
カウンターに並んで腰を下ろすと、顔見知りらしいマスターが近づいてきた。
「いらっしゃいませ」
「私はウィスキーティ」
日頃はコーヒー等の藤枝だったが聞きなれない名前に同じものを、と頼む。あたりの柔らかなマスターが頷いて支度にかかる。
さて、と隣の席に鞄を置いてその上にジャケットを置いた西村はくるりと椅子を回して藤枝の方へと向き直った。
「簡単に休めるお仕事じゃないのに、風邪ひきそうな真似をするなんてどうかしてます」
「これを」
すいっと藤枝が西村に向かってDVDを差し出した。ノーラベルのプラスチックのケースがカウンターの上を滑る。
「手渡しに来ました。本人以外の受け渡し不可って書いてあったから」
「本気にするなんてどうかしてます。大体、ありえないです」
「本気にしますよ。これにはいってたの、みたでしょう?」
「……みてません」
「嘘だ」
中を見たとは言わずに、否定した西村を間髪入れずに違うと言った。
DVDを見つめる目が嘘だと言っている気がして、そして、それはあたっている気がした。
「俺の」
ケースを手にして西村の手をとってディスクをその手に握らせる。
「気持ちはこの中でしゃべりました。だから十分わかったでしょ?」
「……思い込んでるだけ。こんな私なんてたまたま、藤枝さんの傍にいなかった類の女が目についただけなのに」
―― あ……
ひどく弱々しく呟いた西村は目の前に運ばれてきたティーカップに視線を移した。湯気の立ち上るティーカップとソーサーにスプーンが乗せられているのは当たり前だが、ステンレスのミルクジャグが二つ置かれて、一つは正真正銘のミルクだがもう一つが違う。
「……これ、ティースプーンに入れて」
そう言って、ミルクジャグを手にすると藤枝のティースプーンに液体を流しいれて、そのまま、温かい紅茶のカップに傾ける。ふわぁっと立ち上った湯気の中に違う香りがした。
「ウィスキー?あ、だからウィスキーティ?」
「そう。ちょっと甘くてもいいけど、体が温まるから飲んで」
同じように自分のカップにもウィスキーを注いだ西村は砂糖を一つ入れた。琥珀の上に湯気が揺らぐ。
両手でカップを包み込むようにそれを見つめながら、何度も何かを言いかけた唇は、言葉を紡ぐ前に白いカップに触れた。
黙って西村の答えを待ちながら藤枝も熱い紅茶を口にする。
「あ……、うまい」
喉を流れた紅茶はほんのりと酒の香りがして、少しだからこそ、その香りを楽しめる。
かちゃ、とカップをソーサーに置いた音がして、口元に手をあてた西村が俯いていた。
「……本当に、おばさんで、バツがついてて、面白くもないし、センスだってよくないし、スタイルだって悪いし、仕事くらいしか取り得ないし、それだってどのくらいかなんてわかったものじゃないし……」
「見た目はそんな風に見えないし、自分を知らないだけだし、姿勢がきれいだし、仕事仲間に信頼されるってすごいことだし」
「面倒くさいですよ。世の中知らないし、藤枝さん達の世代じゃ当たり前なことを知らないし、恥をかかせるかもしれないし、年上相手なんてよく思われない」
「それで?」
精一杯、塗り固めた壁の向こうが少しずつ見えて来ていて、手を伸ばしたらその手を掴める気がした。
「……だから。……それで」
「それで」
なんとか、答えようとした唇と、頬とを何度も掌で撫でるようにしていた手が、ゆっくりと動かなくなる。視線の端でずっと捉えていた姿をちゃんと捕まえたくて、藤枝は少し椅子の向きを変えて、カウンターに肘をついた。
俯いてしまったその顔が髪に隠れかけているのをそっと攫って、耳にかけてやる。
「それで、西村朋さん。俺の気持ちは迷惑でしたか」
「……」
ふるふると頭が揺れる。年上だとそれほど今までも意識していたわけではないが、今は逆に意識してしまう。まるで年下の女の子のように頼りなげな姿が可愛いと思う。
「じゃあ、わかって?」
軽くふざけた口調なのに、藤枝らしい。
どこかで聞いたような音楽が時間を埋めていた。