リカを叩きつけるように振り切ってから二日後。短いナレーション録りのために録音ブースに藤枝は入っていた。
「はい。オッケー。噛まなかったね」
「当たり前」
「でももっかい録りたい」
「ふざけんな」
ばしゃん、と勢いよく録音ブースのドアをあけて藤枝が出てくる。リカはミキサーの前で録音されたデータをスタッフと一緒にチェックして画に被せるためにぼそぼそと話を詰めていると、藤枝は常備されているポットからコーヒーを入れて飲んで待っていた。
ここしばらく、仕事が終わればさっさとその場から姿を消して余計なことを言われないようにしていた藤枝が久しぶりにゆっくりとその場にとどまっていたので、リカはデータを受け渡し終えると、藤枝の目の前に立つ。
「で?」
「んー?」
「なによ!」
眉をあげてにやりと笑った顔は久しぶりに見た藤枝らしい顔で、つられてリカも笑みを浮かべた。
軽いノリで、首を振った藤枝はコーヒーを飲み干してカップを音を立ててテーブルに置く。
「ちょっと頼みがあるんだけど?」
「何?」
「どっかで時間とれないか?」
「いいけど、何よ?」
どうすれば伝えられるのか、しばらく考えていた。
このままなかったことにしてしまうことも考えた。
だからこそ。
「稲葉の力を借りたい」
そういうと、何をしたいのか、藤枝はひそひそと話し始めた。藤枝の申し出に二つ返事で頷いたリカは、打ち合わせも必要だからといって、すぐその場であいている会議室を探した。
重なるようでいてお互いに仕事ははっきりと分かれている。お互いが開いている時間は明日の午前とその次の日の午後の一部しかない。
「なるべく早い方がいいでしょ」
そういって、空いている会議室を押さえたリカは、藤枝のスケジュールに取材というタイトルで予定を入れた。
「じゃあ、明日の午前ね」
「悪いな」
「ううん。手伝える方がはるかにましよ。むしろ反対。頼ってくれてありがとう」
―― いいの。私は、私にできることをしたかったから……
リカは、ぽんと藤枝の腕に触れると、おどけて見せた藤枝はその場を後にした。
翌日、会議室に姿を見せたリカは藤枝が来るよりも先に、会議室に入って三脚をセットしていた。壁の片側はホワイトボードの代わりの取り外しができるシートが貼りついている。消え残ったマーカーの後をきれいに消しておいて、カメラの位置を調整した。
少し重い扉を押しあけた藤枝が顔を見せると、少しだけ困った顔をして会議室の中へと入ってくる。
「早いな」
「準備してたの。さ、始めるわよ」
藤枝は三十分程度と言っていたが、リカはもっとかかると思っていたからだ。
大きな会議卓を挟んで、壁を背にした藤枝とリカは向かい合った。
「悪いな」
「いいって」
「空井君には?」
「話したよ。また飲みましょうって言ってた」
そういうと、リカは目の前にセットしていたビデオカメラのスイッチを入れた。
「……じゃあ、始めましょう」
頷いた藤枝は、慣れているはずの、カメラのレンズを見つめた。
「今から、西村朋さんへお話します。撮影は稲葉に頼みました」
ニュースを読むこととは違う緊張を胸に、藤枝は息を吸い込んだ。
「僕は、仕事で出会った西村さん。あなたのことは自分からは縁遠い人だと思っていました。でも、二度の取材と、その後の偶然で知り合いになってから、何度か食事をしたり、酒を飲みに行ったりしているうちに、楽しくなって……」
「……好きになった?」
うまく、言いたいことをいいきれるかどうかわからなかったからこそ、リカには撮影だけでなくインタビュアーの役割も頼んであったのだ。
しばらく視線を彷徨わせた後、曖昧に笑った。
「稲葉。お前、空井君のことを愛してるっていうか?」
「えっ……」
初めからいきなり水を向けられたリカは、しばらく考えた後、首を横に振った。
「愛してるって、日本人だからなのか、すごく身近じゃない気がする。やっぱり、私にとってだい……空井さんは好き、かな」
「だろうな。俺は、ずっと女の子は皆好きで、可愛くて、お前何言ってんの?って思ってたんだ……。どこかで、俺にはそういうまっすぐに誰かを好きになるってことはないと思っていたし、ありえないとも思ってた。手に触れただけで舞い上がってる稲葉をみてて、今どきの中学生でもないだろうって。な?」
「……まあ、なんかムカつくけどわかるかも」
大人になって、人を好きになることは思いのほか難しくなる。いいと思うことは簡単でも、そこから先へは、大人だからこそ難しい。
話を聞きながら、藤枝が、本当に自分自身とも向き合いたくてこんな頼みごとをしてきたのかなと、確信は持てないものの、リカはそう感じた。
「西村さんのことをそう思った?」
「……いや」
もっと逆で。
触れてはいけないような気がした。
自分とは離れすぎていて、もっと、リカ以上にまっすぐでどこか自分の様なずるさは持ち合わせてなさそうに見えた。
「思い込みか、今まで身近にはいなかったキャラクターだからっ興味が沸いたんだと思ってた。自分自身でも。……認めたくなかったのかもしれない」
誰かを、想うことを。
嘘の軽口で塗り固めても、手に入らないような想いを二度と繰り返したくなかったのかもしれない。
膝の上に置いていた手をテーブルの上で組みなおす。
そっと手を伸ばしたリカはカメラのズームをゆっくりと調整して画面の中が同じようなバランスになるように変える。
「ずっと楽しいし、会いたいと思うし、でもそれを認めたら自分が苦しくなると思ってたのかな。俺じゃだめだと思ってたのもある」
自嘲気味に呟いた後、息をはいて姿勢を正した。