目を丸くして身を引いた西村の驚き様に藤枝の方も驚いた。
「え、すいません。ふざけて……嫌でした?」
「いや!あのっ……。ちょっとびっくりして……。頭を撫でられるってあんまりないですよね」
「ああ……。そういやそうかも。稲葉が旦那に頭を撫でられるって話してて、あっ……」
無意識に、リカが話していたことが頭をよぎって、頭を撫でてしまった。
少しだけ目を見開いてから西村が目を細めて笑みを浮かべる。藤枝の無意識から飛び出した言葉と行動に一番驚いたのが自分自身とは何と言っていいかわからなかった。
「さすが同僚ですね」
「あ……、ええ」
本当は違う。
そこに意味などないはずで、意味があったのはもう過去の話のはずだったが、何を言っても言い訳のような気がしてただ頷く。
―― 馬鹿だ……
何をやっているのだと自分で自分に毒づいても今更である。
そろそろ行きましょうか、と携帯で時間を確認した西村にNOと言えるだけの手持ちの札はない。いつものように、割り勘でと言いだした西村を藤枝は手で制した。
「今日は俺に付き合ってもらったようなものだから」
「いえいえ、それはそれ。これはこれ。お金はきちんとしましょう?美味しかったし、次もまた来たいので」
「……じゃあ、次回は」
次回は俺がなのか、次回はちゃんと誘う、なのか、それさえはっきりできないまま、席で会計を済ませると立ち上がった。
元気のいい、ありがとうございましたの声に送り出されて店を出ると、目の前の交差点を渡る。
「藤枝さんは私鉄?JR?」
「私鉄ですよ。西村さんもですよね」
JRの駅と離れているはずなのに無理矢理つないだように見える私鉄の駅の一番近い改札口に向かってゆっくり歩く。隣りを歩いているはずの距離は、彼女のそれよりも、同僚のそれよりも離れている。
そこに、酔客がふらりと西村の方へと近づいた。
「西村さん」
片腕を伸ばして、無造作に引き寄せる。
「ありがとう。でも、大丈夫ですよ」
「大丈夫なのはわかってます。でも、俺がいるときは当然でしょ?」
見知らぬ相手でもあるまいし、男が傍にいて女性をエスコートする、と言うのは気恥ずかしいが、まして、少なからず気になる女性なら当たり前のつもりだった。
それなのに、妙に表情を曇らせた西村は、すっと距離をとる。
「そういうのは可愛い女子にしてあげて。おばさん、……っていうと怒られちゃうのか。私には必要ないから」
「どうして?西村さんも俺から見れば女性だけど」
「あはは。性別はねぇ。まだ女子ですよ?」
「当たり前でしょ」
ふざけて話を逸らそうとしているのだとすぐわかる。それを思いがけず真面目な声がひき戻す。
どうしていいのかわからない気持ちのまま、揺らぐ間にも少しでも近づきたいと少しの反応に一つ一つ考えてしまう。
―― 俺には触られたくないのか、庇われたくないのか。いずれにしてもここで拒否るかな……
無意識に眉間に皺を寄せながら、少しずつ近づきながら歩く。新しくなったばかりの駅に足を踏み入れると、西村を振り返った。
「西村さん、ご自宅まで送りますよ」
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
「ほんとに俺の言うこと、聞いてくんないなぁ」
苦笑いが漏れる。
その瞬間、急に西村が慌てた。
「違うんです、違うんです。あのね。藤枝さんの方がルーチン作業じゃないでしょう?だから、疲れるんじゃないかと思って。私は、いくら忙しくても自席での作業がほとんどだし、今日は早く上がれて好き放題していたし……」
片腕を掴まれて、振り返った藤枝はその急な変化に戸惑ってしまう。
何と言っていいかわからずに、とりあえず刻々と時間はすぎてしまうからと、改札を抜けた。同じ方向ではあるが、乗る電車が違ってくる。次々とホームに入ってくるのをみて藤枝は、西村を促した。
「じゃあ、先行ってください。俺はこの次ので行くんで。また今度」
誘いますから。
携帯を見せてそういうと、ごめんなさい、と頭を下げて西村が小走りに急ぐ。ホームにいた電車に駆け寄ると、乗り込んですぐに電車が閉まった。振り返った西村が藤枝に向かって小さく手を振った。
すぐに携帯が鳴って、ありがとう、とメールが届く。
『急なお誘い、とても嬉しかったです。是非また誘ってください。次は、おごっていただきますね』
それを見ながら、遅れて入ってきた電車の行き先を見て、片手をパンツのポケットに突っこんだまま乗り込む。
「……わっかんねぇなぁ」
自分の気持ちも、西村の気持ちも。
リカのように見てすぐわかる、すべての感情が表情や仕草に出るのと違って、藤枝や西村は大人の顔がそれらを覆い隠す。
自分自身さえ騙してしまいそうな大人の理性が邪魔をして、どうにも素直にはいかないのが大人の恋愛というところだろうか。
表を流れる夜の景色を見ながら、もう一度西村のメールを開くと返信を返す。
『こちらこそありがとうございました。次は何がいいか考えておいてください。おやすみなさい。ゆっくり休んで』
数駅で、自宅のある駅についてしまう。ままならない気持ちと共に、藤枝を乗せた電車は夜の闇と、灯りの間を流れていった。