「今年はやっぱり、ブルーに来てほしいって話が多いんだよ。年間の計画はもう決まってるんだけど、キリーの時みたいに臨時で申請っていう事もあるしね」
上機嫌で話す大祐に相槌を打ちながら、車は官舎の近くのスーパーに立ち寄ってから大祐の部屋へと戻った。
部屋に入ると、昼間の熱気が籠っている。すぐにエアコンをつけた大祐が、リカを振り返って腕を広げる。
「少しだけ、ハグしていい?汗臭いと思うんだけど」
申し訳なさそうに付け足した大祐にリカの方からぴたりと体を寄せた。すっぽりと腕の中に納まると、ひどく安心する。
「あー。充電される」
思わず、口から洩れた本音にリカが笑い出す。充電器なの? と言いながらも、確かにうまい言い方だ。そっと離すとリカの額に軽くキスした大祐がぺろりと舌をだした。
「まだ足りないけど、とりあえず、ね」
先に入ってとシャワーを促されたリカは、どうせ着替えるなら大祐が先にと言った。制服から着替えるのだからそうなるだろう。ごめんね、と言いながら着替えを手にした大祐がバスルームに消えた。
その間に、買ってきたものを並べて、そろそろ慣れてきた台所からコップを持ってくる。かさっと鞄の中で茶色の袋に入った検査薬が見えた。
一緒に立ち寄ったスーパーのドラッグストアで密かに買ったそれが先に話すべきか、試してから話すべきかを迷わせる。
「お待たせ。リカもどうぞ」
カラスの行水かというくらいの速さで顔を見せた大祐がタオルで水滴を拭いながら声をかけた。びくっと飛び上がって驚いたリカが、慌てて立ち上がる。
大祐と入れ替わる様に着替えを持ったリカがバスルームに消えた。
―― やはり何かあったのだろうか
リカの様子がおかしいことに首をひねりながら、冷蔵庫から二人分のビールを手にする。仕事には手を抜かないリカがこんな平日に無理をおしてまでこっちに来るとしたら、よほどだと思う。
―― 俺に会いたかっただけっていうのは……
会いたくても我慢できるときは我慢。
そうしなければ、交通費だけで自分達は互いに首を絞めてしまうことくらいリカもわかっているはずだった。
濡れた髪を拭いながら、カレンダーに目を向ける。水曜日なら民間の会社は定時退社のところが多いから、それを利用したとも考えられなくないが、やはり違う気がした。
リカがバスルームから出てくると、二人で軽く食事を始めた。リカは、今日はやめておくといって、ビールには手を付けず、新幹線の残りだという麦茶を飲みながら大祐の話を聞いていた。
ビールを一缶だけ飲んだ大祐も、リカにあわせてお茶にするとゆっくり切り出す。
「それで、リカはどうしたの?」
にこっと微笑む顔に話題としてはひどく話しづらい。
それでも、それを話すためにわざわざ来たのだ。迷っていたが先に話すことにしてリカは息を吸い込んだ。
「あの、ね」
「うん」
「あの……、ね。ちょっと……。ちょっと待って、緊張する」
いざ話をしようと思うと、どんな反応をされるかが怖くて、自分の躊躇いをひっくるめて口にするのが怖い。
聞く方の大祐も、いったい何を話されるのかとわずかに身構えながら待っていると、ふう、と大きくリカが息を吐いた。
「……少し、遅れてて」
はて、と首を傾げる。大祐の頭には何が、という要素が完全に抜けていた。仕事が遅れているというのだろうか、だから、しばらくは会えないから無理をしたのだろうか。
その考えがまるっと顔に出ているのを見て、膝の上でぎゅっと手を握ったリカは、大祐の顔をまともに見られずに俯いてしまった。
「……その……せ、生理がっ……」
「……え……」
「それで、その、確かめなくちゃいけなくて、でも、大祐さんに話してからにしようか迷って、検査薬試してからにしようと思ったんだけど……。結果がわかっても、それを電話で話すのはなんだか嫌で……」
リカが俯いていて、顔を見ていないのはわかっていたが、目を丸くした大祐は、しばらく目の前のリカの髪を眺めて固まってしまった。
いつまでも何も言わない大祐に恐る恐る、顔を上げようとした瞬間。
ふわっと、遮る様に包まれたことに気付くのが遅れるほど、大祐の腕がそうっとリカを包み込んでいた。
「……えと、その、女の人の事だから、俺よくわかってないかもしれないんだけど。なんていっていいのかわかんないし、その……、大丈夫?」
大丈夫かと聞いてから、違うんだ、と呟く。色々な意味にとれそうな言い方をしたことを後悔してもう一度言い直す。
「リカは、今、具合が悪いとかないの?」
その声音に少し安心したリカは、小さく頷いた。
「うん。大丈夫。ただ、その……わからないから、落ち着かないというか……」
それには大祐も頷いた。かもしれないままでは不安だろうし、自分達はそんな話さえ、まだきちんとしていなかった。壊れ物に触れるように、そっと腕を解いた大祐は間近でリカの顔を覗き込んだ。
「それって、すぐにわかるものなの?」
「検査薬でほとんどはわかるみたい。でも正確なのは、やっぱり病院に行かないと……」
「調べようよ。不安でしょ? 落ち着かなくて」
一度口に出してしまえばひとまずは行動するだけだ。頷いたリカは、鞄に手を伸ばした。実はさっき、と茶色の紙袋を見せると、リカが立ち上がる。
その手を大祐が掴んだ。
「あのっ! 俺が悪いんだけど、うまくいけなくて、その……」
「うん……。ごめんなさい。驚かせて」
「待って、リカ。そうだったとしても、そうでなかったとしても、俺は、それを伝えに無理して来てくれただけで、もう、なんていうか……」
嬉しくて。
胸がいっぱいで。
うまく伝えられないもどかしさに何度も顔を顰めた大祐は、掴んだ手をなかなか離せなかった。
何と言っていいかわからないけど、こうして夫婦の繋がりが強くなっていくんだとじわじわ染み込んでくる。
リカの顔が不意に曇った。
「あの、違うの……。私、そんな風に言ってもらえる資格なんかなくて、初め、仕事どうしようってそんなこと考えてて、一人で東京にいていいのかとか……っ」
「うん。わかるよ」
リカの顔を見上げながら、落ち着いた声音で語りかける。
不安に思って当然だ。仮に逆の立場だとしても、自分も同じように考えるだろう。
「それは、当たり前だと思う。特に、俺達、いや、俺の仕事だったら仕事に復帰することも普通だから迷いは少ないと思うけど、民間じゃ色々あるだろうし、ましてリカの仕事じゃ今まで築いてきたものがあるんだから」
ずるずると掴まれた手に引き寄せられるようにリカがその場に座り込んだ。
いろんな気持ちが溢れてきて、どうしようもなくなる。
「……私、だって、今までこんなに遅れたことなくて、そういう事もあんまりなかったし、それで、一番先に喜ばなくちゃいけないはずなのに、なんか色々考えちゃって、でも、一人で考え込んでるのは駄目だって思って、確かめてからにしようと思ったんだけど、だけど」
リカの頬に手を添えた大祐が、軽く唇に触れて、言葉を遮った。
不安にならない方がおかしい。喜ばなくちゃいけないなんてそんなことはない。
「俺は、男だけど、でもきっと皆同じなんじゃないかな。俺だって、今、一番先に考えたのは、俺が気を付けなかったからだ、だし、リカがこれから一人で仕事しながら産むところなんか想像したくないし、だったらその隣に俺もいたいしって。全然、喜ぶより先にそっちを考えたよ?」
「……いいの?」
「いいも悪いもないよ。だからこうして大変なのにわざわざ話に来てくれたんでしょう? ……って、あ! あの、無理して本当に辛くないの?」
今更のように心配する大祐に、泣き笑いの顔でリカが頷いた。
「平気。別に具合が悪いわけでも何でもないし」
「そっか。ならよかった。無理しないで何でも言って?」
「うん」
指を絡めてつないだ手を握ると、もう一度立ち上がる。ちょっと待っててね、と言ってリカが手洗いに消えた。
「……ふわ……」
座り込んだままの大祐は両手で顔を覆った。正直、現実感が全くないが、もし子供ができているなら、恋人期間がほぼゼロで夫婦になり、夫婦だけの期間が数か月で父親になることになる。
リカとの時間をもっと楽しみたかったのもあるが、リカとの子供と思うだけで舞い上がってしまう。
何より、リカが辛くなければいいのだ。