眠り姫の憂鬱 10

いつもはおでこを出すようなリカの髪型も、今日はその顔を隠すように前髪も全部下ろしてある。

次々と姿を見せるスタッフたちが挨拶をして席に着いた後、リカの様子に気づいてぴりつくのを精一杯、触れるな、触るな、とガードする盾になるだけで精一杯だった。

昼過ぎになって、ようやく姿を見せた藤枝に、珠輝は飛び上がる様に立ち上がって、一度廊下へと連れ出した。

「遅いです!!藤枝さん!」
「あのねぇ。俺も、これでも仕事があるの。それに、あいつの面倒見るの、俺の役目じゃないから」
「何言ってるんですか!そういうふざけた感じじゃないんです!朝から稲葉さん、絶対昨日泣いたでしょって感じで、一日ほっとんど誰とも口きかないし、ピリピリしてて……」

わかった、わかったから、と興奮する珠輝を宥めた藤枝は、もう一度情報局のフロアに入った。

その背中に誰も近寄るな、というオーラいっぱいのリカの隣の椅子を反対向きにして座ると、横からまじまじとリカの様子を見る。

「何」

藤枝の顔を見ることなくPCに向かったままのリカは、ただそれだけを口にした。

「いや。何?この紙袋」
「食べていいよ。てか、もってって」

無造作に口にしたリカは、顔を上げれば突っ込まれることがわかっているから藤枝の顔を一切見ない。
藤枝にも何かあったな、とは分かったが、いつもはからかうはずの藤枝が何も言わずに、リカがデスクに置いていた紙袋を覗き込んで中から一つを取り出した。

「へぇ。クッキーじゃん。いいの?」
「いいよ。食べないから持ってきたの」

じゃあ、食べないならなんで作ったんだとか、こんなに大量に、なんてそんなことも一言も言わずに藤枝は、紙袋を取り上げると珠輝の方へと差し出した。

「珠輝ちゃん、稲葉が作ったんだってさ。皆で分けようぜ」
「ちょ、藤枝さん」

何とか言ってくださいよ。

立ち上がってそう言いかけた珠輝の顔をじろりと藤枝が見上げた。
その目がはっきりと“黙れ”と言っていて、怖いもの知らずの珠輝が黙り込んだ。

「うまそ。コーヒーくんない?珠輝ちゃん」
「……わかりました」
「稲葉、お前は?」

コーヒーがいるのか、と聞いた藤枝に、黙ってリカは首を振った。
いつもなら自分で入れてくださいよ、と言われて終る。藤枝も、自分で好き勝手に入れるコーヒーだが、むすっとした顔で運んできた珠輝にありがとぉ、と明るく言った藤枝は、ブラックのコーヒーを一口飲んだ。

「うん。なかなかいけんじゃん」

味はいい。むしろ、ラッピングまで凝っている方が問題だったが、それ以上は何も言わずに藤枝はクッキーを食べて、さらに紙袋の中からブラウニーを取り出した。

「これもいいの?」
「いいって言ってるでしょ」
「ふうん」

ぱくっと食べたブラウニーはビターチョコで作られていて、ほろ苦い。
やれやれ、と思いながら残りを珠輝の机に押しやった。

「珠輝ちゃん、食べなよ。うまいよ」
「……はあ」
「残ったらみんなで分けちゃえば」

そう言いながら残ったコーヒーを飲み干す。

「んじゃ、俺そろそろ行くわ。サンキューな」
「じゃあね」

その時だけは打てば響くくらいの速攻で帰ってきた返事に、ぴくっと藤枝は頬を動かした。コーヒーのカップを手にしたままで、もう片方の手をリカのデスクぎりぎりにつく。

「お前さ。八つ当たりする相手間違えるんじゃねぇよ」

周りには聞こえないような低い声でそう言うと、藤枝はドリンクコーナーにカップを戻して、フロアを横切っていく。
リカは、両手で額を覆って、小さく呟いた。

「……ごめん」

藤枝と、リカの両方を見比べていた珠輝が慌てて藤枝の後を追いかけた。

「藤枝さん!」
「あのさぁ。ほっとけって。いい大人なんだしさ、周りで世話焼くのもそろそろやめないと、あいつら駄目じゃん?」
「でも!」
「ほんとになんかやばいんだったらちゃんと動くし。それにさ、珠輝ちゃん、忘れてるんじゃないの。あいつのダンナがどういう男か」

―― 稲葉も稲葉だけど、空井君も空井君なんだから、雨が降っても固まるっての

少なくとも並みの男ではないことは藤枝もよくわかっている。とにかく、リカに対して、何もするなとだけ釘を刺した藤枝はそれでも携帯を手にしていた。

1週間がこんなに長いと思ったことはなかった気がする。
あの震災の時は、逆で、1日が恐ろしく短くて、早く過ぎて行ってくれればいいと思っていたが、その逆はひどく長くて辛かった。

もやもやした気分が堪らなくなって、週の半ばにリカは柚木に電話をかけていた。どこかで甘やかしてほしい、そんな気分でかけた電話に柚木はあっさりしていた。

『はあん。で?』
「でって……」
『あたしにはよくわかんないけどさ、空井の野郎がちゃんと会って話すことがあるつってんでしょ?だったら会った時にききゃいいじゃん』
「でも、だったら先に言ってくれたって……」

てっきり柚木が一緒になって怒ってくれると思っていたリカは、思いがけない返答にだんだん声が小さくなった。

『んー。でもさぁ。あたし思うんだけど。メールってさ、どーだっていいことならいいけど、ちゃんと相手の目をみて話したいことって意外と伝わらなかったりするじゃん。それが電話だったらもう少し伝わって、でもちゃんと伝えたいってそういうことじゃないの』
「そんなことはわかってます。わかってるけど、でもだったら、せめて携帯じゃなくても電話くれればいいし、そしたらもうちょっと……」

今までなら、無茶苦茶でも夜中に車で来てくれたこともある。雪でどうなるかわからなかったのに、ちゃんと東京に来てくれたのは先週のことだったはずだ。
会って話すというなら、それなりの手立てを考えてくれてもよさそうなものだが、日曜の電話の後、大祐から毎日電話はあったがリカは出なかった。

ぐずぐずと言い続けるリカに、珍しく柚木は電話の向こうで大きなため息をついた。

『あんたさぁ。何、女学生みたいなこといってんのよ?』
「えっ……」
『あんたたち、あんな思いして一緒になったんだから、お互いのこと信頼してるんでしょ?それに、今まで空井がそうやって無茶なことしてあんたのところに来てたかもしんないけどさ。あんた、そのたびに空井に無茶はしないでくれって言ったんじゃないの?なのに、今はそれをしてくれないって文句言うのはおかしいだろうが』

ぴしゃりと言われた言葉にリカは返す言葉がなくて黙り込んだ。

投稿者 kogetsu

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