眠り姫の憂鬱 11

柚木の勢いは途絶えることなく、荒っぽい口調の厳しい説教になって紡がれる。

『それに、あんたも空井も社会人だろ?そういう無茶やって、その時はいちゃいちゃしてそれでいいかもしれん。でもそれで仕事に支障出さないって絶対にいいきれんのか。明日何が起こるかわからないって身に染みてるだろ?自己管理も大人の責任だとあたしは思うけどね』
「でも……。柚木さん……、だったら家族はどんな思いしててもいいんですか……」
『誰もそんなこと一言も言ってないだろ!あーもうっ!大体、あんただってこうしてあたしに電話してきてるんでしょ?本当に、空井が浮気してるとか疑ってるんだったらあんた、うちまで来るとかしてただろうが。それを電話で済ませておいて、空井にだけ空飛んで来いっていうのか』

徐々に、ふて腐れたリカがむぅっと黙り込んでいると、どうやら電話の向こうでは隣で聞いていたらしい槇が何かを言っているのが微かに聞こえた。
しばらく、電話の向こうで言い合いが続いているなと思っていたら、ちょっと待って、と言って柚木が電話を渡したらしい。

『こんばんは。稲葉さん』
「槇さん……」
『あの、詳しくは聞いてないんですけど、典子はあれでも心配してるっていうか、心配しすぎてきついこと言うんで』

そうですよ。奥さんひどいです。もうちょっと傷ついてるんだから優しくしてくれたって。

そう言いたくて、言えなかった。
こんなの子供の我儘だ。

黙ったリカに、槇はあの頃と全く変わらずに同じトーンのままで語りかける。

『稲葉さん。あの、男なんて単純なんです。大抵、一つのことしか考えらんなくて、テンパってるのが大概なんです。まして、惚れた女に泣かれるのが一番応えるんで、きっと空井も稲葉さんを泣かせるつもりなんかない』
「だったら!だったら、ちゃんと連絡くれたらよかったんです!私だってそれなら変な気を回さなかったし、メールだって今はどんなふうにしたって送れるのに、それもなかったし、だから私、馬鹿みたいに松島まで行って馬鹿みたいにとんぼ返りして!」
『稲葉さん。それ……、俺にいうことじゃないですよね?ちゃんと空井の顔をみてあいつに言ってやってください。俺は、女性のことはわかんないんで、女の人がどういう風に考えるもんなのかわかりませんけど、そういうこともきっと空井は、稲葉さんのこと、可愛い人だって思ってる。それは俺が保証できます』

電話の向こうで、携帯に張り付いて聞いていた柚木が槇の頭を小突いたらしい。ごそっと音がしてそれと同時にいてぇ!と声が上がる。
あんた何、よその人妻口説くようなこと言ってんのよ、そうじゃないでしょうが!というやり取りが続いた後、再び柚木が電話に出た。

『あー。悪かったね。ちょっときついこと言いすぎた!でもさ、ほんと、稲葉の考えすぎだと思う。空井に限って変なことあるわけないから、ちゃんと空井と話しな』
「……わかりました。すみません。こんな遅い時間に」
『ばっか。あんたほんと変わんないわね。いい?今度時間、作りなさいよ。飲みに行くんだから』

そんな電話を切って、柚木と槇のおかげで週の後半をなんとか乗り切ると、金曜日、リカの携帯にメールが届いた。

『電話に出てくれないので、予定を聞けなかったけど、今夜そっちに向かいます。その時にちゃんと話をさせて』

どくん、と大きく心臓が跳ねた。
いつもは到着時間もかいてくれるのに、それもないメールは素っ気ないくらいで、どう答えていいかわからなかったけど、わかりました、とだけ返す。

怪我の功名というには痛すぎたが、行き場のない思いの分、仕事の方は目いっぱい片付けてしまったおかげで、金曜はほぼ定時と共に上がることができた。
大祐が来る日は、買い物をして、美味し物を食べてもらおうとか、いろいろ考えるのに、今日だけは気が重い。

東京駅まで迎えに行くことができなくて、リカは家の近くのスーパーで買い物をして帰った。

時計を見るとドキドキしてしまう。ご飯を炊いて、サラダを作って、つくることに時間がかかるもの、と考えたリカは、おでんを作り始めた。

いつ来るのかわからないまま、落ち着かない気分で待っていたところにチャイムが鳴ったのは9時を過ぎた頃だった。

がちゃっと鍵を開ける音がして、しばらくしてから様子を伺うようにドアが開いた。玄関まで行って、待っていたリカをみて大きくドアを開けた大祐が中に入ってくる。

「ただいま」
「……おかえりなさい」

後ろ手に鍵を閉めながら大祐の顔は困ったようなままでじっとリカを見つめる。
視線を逸らしたリカが先に部屋に入っていく後に続いて、大祐が部屋に入った。

鞄を置いて、コートを脱いだ大祐は、逃げるようにキッチンに立ったリカの正面にカウンター越しに立つ。

「リカ。なんで電話に出てくれなかったか、先に聞いていい?」
「そ……。あの……」
「うん。俺はちゃんと聞くから」

この1週間、それだけを考えていたから。
ふと顔を上げたリカは、大祐の顎のあたりに薄らとあざがついているのを見て、それまで恐々、大祐を見ていた視線が自然に上がった。

「大祐さん、その顔……」
「え?ああ……。後で話すからそれより、リカの話だよ」

怒っているような、困った顔を見て、リカはふう、と大きく息を吐いた。

「ご飯……、先に食べませんか」
「無理」

乗り出すようにカウンターに手をついた大祐は、ぐしゃっと髪をかき上げた。

「もう、絶対無理!!毎日、具合悪くなったことにしてこっちに来ようと思ったか!でも、そんなことしていい大人が馬鹿みたいだって思ったけど、電話はでてくんないし、メールしてもこんなじゃうまく伝える自信なんかないし!!だんだん俺も意地になってきて、こんなんじゃ駄目だって思って!!」

堰をきったように取り乱し始めた大祐は、ぐるっと大股でリカの方へと回ると、すぐ目の前に立ってじっと見つめた。
抱きしめたいのに、どこか怖がっている気がして、リカが大祐の顔をみあげた後、恐る恐る腕を広げてリカを包み込んだ。抱き寄せることもなく、触れるかどうかのギリギリのところで腕を回した大祐の肩のあたりにかすかに表の冷えた空気を感じて、目を閉じて額を寄せる。

リカから触れてきたことでほっとしたのか触れそうで触れていなかった腕が下ろされて、ほんの少し近づく。

「泣かせてごめん……。ちゃんと、話を聞かせてほしいんだ」

このままでは駄目なことはリカもわかっている。小さく何度も肩のあたりで頷いたリカの手を取って、部屋の方へと連れて行った大祐は、リカと一緒に腰を下ろして向かい合った。

「話してくれる?怒ったんだよね?俺が、なかなか電話できなかったから?」
「それも……。ううん、それは携帯、なかなか買いに行けなかったんじゃないかなって思ってたんだけど」

いざ、向かい合って、さあ、話してと言われると何から切り出していいか、難しくて俯いたリカは、リカの手をそっと握っている大祐の手を引いた。

「大祐さんから、先に話して。何があったか、何を……」

言いかけたのか。

大祐の手に預けられた手は微かに震えている気がして、半分目を伏せた大祐はゆっくりと息を吸い込む。

「……わかった」

ちょっと待ってね、と言って、ネクタイを外してワイシャツのボタンを緩めた。ジャケットもまだ脱がないのに、リカの手だけは優しく握ったまま離そうとしない。

「どこから話せばいいか……。うん。飲み会に行ったところから順番に話すと、久々の飲み会で、俺もちょっと飲みすぎたんだよ。ちゃんぽんに飲んで、記憶にないんだけど、次の店に行くって行って、ごねたみたいでさ。その時に携帯を落としたらしくて、次の朝、探しても見つからないから早めに家を出て飲みに行った店の周り探したら、水たまりの中に水没してて」

拾って、出勤した後、洗って乾かした話をするとリカは、苦笑いを浮かべた。さすがにそんなことでは復活しなかったことはもう証明済みだから、さらりと説明した後、前島に呼び止められたことに話が及ぶ。

「あいつは、年も一緒で気安く話せる相手で、官舎の部屋も近いから結構、行き来とかもしてるから、用があるなら仕方ないなって。ごめん。その時に、先に携帯を手に入れてればリカに心配かけることもなかったんだけど」

大祐がそういうときに仲間を大事にすることはリカもわかっている。そして、気の置けない相手だからこそ、気軽に誘いに頷いたのだろう。
時々、ちらりと大祐の顔を見上げながら話を聞いていたリカを見て、大祐は少しだけ話を止めた。

「大祐さん?」
「……うん。本当だったら色々考えてきたんだけど」

うまく話せるかどうかわからないけど、そのままを話すよ、と言って大祐は続きを始めた。

投稿者 kogetsu

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です