ファミレスに到着すると、平日とはいえ、夕飯時だけにそこそこの賑わいでほぼ満席状態だった。
店内を見回すと、店員が待ち合わせですか、と聞いてくる。長身の大祐の姿は目立つ方で、禁煙ゾーンの奥の方に座っていた由香が立ち上がった。
店員に手を上げて頷いてから、大祐は由香の元に近づいた。向かい側に腰を下ろすと、嬉しそうな顔で由香がメニューを広げる。
「嬉しいです。来てくれて」
来なかったら付きまとうと言ったのは由香の方じゃないかと言いかけてやめる。ただ、非難するだけの言葉をぶつけても、会話が混ざり合うことはないからだ。
「オーダーしたの?」
「まだです。空井一尉は何食べますか?」
メニューを見ても、由香と食事をするつもりなどない。ドリンクバーだけを頼むと、食事をするつもりだったらしい由香は、自分も、と言ってドリンクバーだけにした。
「食べれば。俺は奢らないけど」
「いえ。空井一尉が食べないなら自分もいいです」
「そう」
立ち上がって、ドリンクバーからアイスコーヒーを持ってきた大祐が席に着くと、急いで由香が自分の分のドリンクをとってきた。
「で?」
「はい?」
「本当は俺のこと、好きとか違うんじゃないの?」
「どうしてですか?」
ミルクにガムシロを入れたコーヒーはすぐにミルクの色が混ざり合う。
一口、口にした大祐は、努めて冷静に問いかけた。
「いくらやめるからって、いきなり言い出すのは変だから。今まで俺は大澤と仕事以外でそれほど話したことはないから」
「……話したことがないと好きになるのは変ですか」
「変だよ。そんなの……、遠くから見てよく親しくもない相手に好きだとか押し付けるのっておかしいだろ」
からん。
グラスの中の氷が解けて動いた。ざわついた店内で、妙にその音が響く。
「……でも、恋愛って、そういうものじゃないですか」
「え?」
大祐の顔を見ていた由香の顔が作り物の笑みの浮かんだ顔が薄紙を剥ぐように、剥がれ落ちた。
その顔に、思わず大祐も正面から向き合ってしまう。
「よく、その人のことを知らなくても、どんなことを考えるのか、どんな風に笑うのか、何が好きで、どんなことに喜ぶのか。知りたいって思って、知れば知るほど、好きになって。恋愛なんて、そんなものじゃないんですか?空井一尉だって、そうじゃなかったんですか?」
静かな、いっそ、向かい合って、その顔を見ていなければ聞き取れなかったかもしれないくらいのボリュームだった。
「奥さんと出会って、どんな風に笑うのかを知って、どんなことに喜ぶのかを知って、自分のことを知ってくれて……。空井一尉だって、奥さんに好きだって言うときは、一方的だったでしょう?それが、ものすごい奇跡みたいな確率でお互いが好きになって結婚したんじゃないですか?」
言葉が、出てこなかった。
確かにそうだと肯定してしまう自分がいる。リカが藤枝と付き合っていると思い込んでいた時、確かに自分はリカに片思いをしていて、奪おうとさえ思ったのだ。
由香が言うことはとても正しいことに思えた。
「それを……、空井一尉が結婚してるからって、私が思ったら変ですか?」
変じゃない。
変じゃないけど、それは行き場のない想いでしかなくて。
「私、だから空井一尉に奥さんを捨ててくださいとか、家庭を壊したいとか、そんなこと思ってないんです。好きになってもらわなくてもいいんです」
「だったら……」
喉の渇きを覚えて、大祐はグラスのコーヒーを一息に飲み干す。ふっと由香は大祐から視線を外した。
「私、地元、遠いんです」
「え?」
いきなり変わった話についていけなくて、自分が何か聞き間違ったのかと問い直す。その大祐に、由香は再び作り物みたいな笑みで、はきはきと口を開いた。
「やめた後は地元に戻ってお見合いして、結婚して、実家を継ぐんです。大した家じゃないんですけどね。名前だけで何をやってるわけでもないのに、この家を守るつもりはないのかって親が言うんで。相手も、もうしょっぼい相手なんです。地元の昔でいうところの特定郵便局ってやつ?いわゆる地元の郷士なんですけどね。嫌なやつなんですよ。1コ上なんですけど、中学でも大っ嫌いだったんです。でも、地元じゃ名士の家なんで、そこから婿にくるなんてないし、親はすっかりその気ですよ。相手の親も、嫁が元自衛官だったら何かあってもしっかりしてると思ったんじゃないですか」
断れないのか、とか、親と話をしたらとか、そんな決まりきった問いかけを大祐はしなかった。
きっと、できるならとっくの昔にしていただろうし、親を説得するということも、地方出身者では大変だという話は男でもある。昔、航空学生だった頃、自衛隊に入るなら縁を切ると言われて、入隊したと言っていた先輩がいたことを思いだす。
「自分で、希望してなった自衛官なのでうまくいったらこのまま、家のことはどうにかなるんじゃないかなって思ってたんですけど、やっぱり世の中そんなに甘くないです」
グラスの周りについた水滴が、輪になって水たまりを作る。グラスを持ち上げると水滴がぽたぽた落ちて、大祐の膝を濡らした。
「俺には、軽く、こうしたらとか言えないし、だからって大澤に何かしてやれることなんてないよ」
「そんな重く考えないでください。自分、これでも腹をくくってるんです。このまま、務めていられたらなってずっと思ってたから、どんな相手でも笑顔で、嫌な顔もしなかった。無理もたくさんしてきたけど、地元に帰ったらそんなこと知ってる人もいないんですよね。せめて、やめるまでの時間、好きなように生きてみようって思ってるんです。それだけだから、あんまり深く気にしないで、ちょっと付き合ってもらえばいいんで」
「だから、俺はそんなに軽く付き合ったりできないし、そもそも、結婚してるのにほかの誰かと付き合う気なんかないってば」
気まずさと、いたたまれなさを誤魔化すために飲んだグラスの内側を、ゆっくりとミルクの名残が滑り落ちていく。
苦笑いを浮かべた由香が、何でそう固いかなぁ、とこぼした。
「皆、もっと簡単ですよ?ちょっと誘ったら、誰でも飲みにつれて行ってくれるし、軽くどう?って誘ってくる人もいるし。別に皆、本気じゃないし、だからどうするなんて言わないし」
「俺はそんな風には思えないよ」
どう頑張ってもできないことはできないし、そんなことでつきたくもない嘘をつくのも嫌だ。
大祐の苦々しい感情を汲み取ったのか、由香はまっすぐに顔を向けた。
「そういう空井一尉だから好きになったんです」
どんなに想っても、向き合えない想いに大祐にはわからなかった。由香の考えることとは違っていても、少しでも付き合ってやれば満足するのかとも思う。だが、やはり思いは変わらない。
ポケットから小銭を出した大祐は、ぱちんと500円玉をテーブルの上に置いた。
「……大澤の言いたいことはわかった。気持ちはありがとう。でも、俺もそれに応えることはできないし、しようとも思わない。ただ、それだけだよ。俺に付きまとって、言いふらしても何も変わらないから」
じっと大祐の顔を見つめたままの由香を置いて、大祐は先に店を出た。
まだ、電気屋は営業時間内で、明かりがついていたからそのまま足を向ける。店頭で携帯を眺めながら、その情報は大祐の頭の中にほとんど入ってこなかった。