眠り姫の憂鬱 17

「いけばいいじゃないですか。とにかく、私は朝ご飯、もう昼ですけど、一緒に食事ができればいいんだし。一度帰って、服を着替えても、今日中には行けますよね?朝帰りでも月曜の勤務までに戻れますよ。自分、食べるの早いんで」

狭い階段は、1階分でも2回折り返る。そのたびに、途切れながら由香が大祐を追いかけた。東京に行けばいい、食事をしに行くけれど、どうか行ってほしいとでも言わんばかりの声を大祐はほとんど聞いていなかった。

「送っていくから、食事したら家に帰れ。昨日、送らないって言ったにしても、俺にも責任があるし。ちゃんと帰れって、言わなかったから……」
「奥さん、待ってるんじゃないですか?」

当たり前だろう。

最後の一言には、さすがにむっとして怒鳴りそうになる。こんな場所でそんな真似をしたら噂はどこまで広がるかわからないから、強く、左手を握りしめて、グーとパーを繰り返す。

「リカにはちゃんと話、するから」

低く抑えたつもりでも、その声に怒りが滲んだのは確かで、少し遅れてついてきた由香が、微かに微笑んだ。

「空井一尉は、こんな自分にも優しいんですね」
「そうでもないよ。本当に大事な人以外、どうでもいいと思ってるし」

リモートで車のロックを外して、運転席に乗り込むと、助手席に乗ろうとした由香に乗る場所が違う、と言って、内側からドアを閉めた。

「ほかの誰を乗せても、助手席に乗せるのはリカだけだから」

そこには乗るなという意思表示に、由香は嫌な顔をするどころか、むしろ嬉しそうな顔で、後部座席に乗り込んだ。

「それでも、こうやって乗せてもらえるだけで嬉しいです」

ルームミラー越しに、由香の顔を見た大祐は、まだ温まりきらない車のエアコンを強めにしてからすぐ走り出した。狭い空間の中で、二人きりでいる時間を少しでも短くしたかったからだ。

そして。

この瞬間を、リカが見ていたとは知らず、深く考えずに行動できるからと、連日足を運ぶ羽目になった場所へと車を走らせた。スーパーの並びのラーメン屋の目の前に車を停めると、さっさと車を降りる。

「嬉しい。ラーメン好きですよ」
「……イタリアンは3日続くのは嫌だし、ほかにないからだよ」

体が温まるようなもの、わざわざ選んだわけじゃない。

わかっていても、口にしてしまうからこそ、肯定してしまう。
大祐は無愛想に背を向けて、開店したての店へと入っていった。

リカとなら、同じ食べ物をシェアできても大澤とはしない。
その線引きだけはきちんと引いたうえで、大祐は向かい合って座っていた。

「はぁ~。生き返る……」
「だったら、そんなことしなきゃよかっただろうに」
「いいじゃないですか。一度やってみたかったんです。高校卒で入ったから、自分、コンサートに行って、夜遅くなるとか、夜通し飲み会で、とかやったことなくて、一晩中、家の自分の布団の中じゃなくて、自由に動き回れるって不思議でした」

何もこんな寒い時期にそれをやらなくてもいいだろうに、これまで、優等生でいい子で過ごしてきた由香の精一杯の自由なのだろう。
大祐にはそれが、自由なのかはわからなかったが、やってみたかったんだろうな、と素直に思う。

「大澤」
「はい」
「明日、一日、映画でもなんでもいいけど、付き合ったら気が済むの?」

顔も上げずに言った、大祐の言葉に、由香は目を丸くして動きを止めた。

「何?自分から言い出したんだろ?」
「そう……ですけど……」

怪訝な顔で由香を見た大祐は、自分が深くは考えずに口にしている自覚はあった。それでも、いつまでもこんなことを繰り返したくない気持ちで、東京に行けないならと、精一杯譲歩した案を言い出しただけだ。

凍りついたように動きを止めていた由香がぎこちなく動き出す。

「あ……、はは。そうですよね。いつまでも付きまとうって言われたら鬱陶しいですよね。そうだ、そうですね」
「何言ってる?確かに、俺は嫌だし、応える気もないけど、大澤はやめるんだろ?そのうち我慢してればいなくなるのはわかってるだろ」

時に、口からでた言葉の方が自分自身の本音に近い時もある。大祐も、自分でしゃべっておいて、ああそうか、と自分で妙な納得をしていた。
残り1ヶ月やそこら、この程度のことに我慢できない自分でもない。適当にあしらって、懲罰にはならない程度に抑えてやって、送り出してやるくらい、いざとなればできないわけではない。

それなのに、大祐は、自分がちゃんと向き合ってやりたいと思っていることに気づいた。

「……じゃあ、なんでですか?」
「……俺も、リカに会うまではどっかで、大澤みたいに、もう何もかも終わったような顔してたから」

まるで、この先の人生が余生のような顔をして、すべてを諦めていたから。
由香が、今、作り物の笑顔を張り付けて、笑ってい田のと同じように、大祐もそうだったからだ。

その由香にとって、今の大祐は唯一、縋れるものだと否応なく伝わってくる。

「……すみません」

箸を置いて、手洗いに席を立った由香は、しばらくしてから戻ってきた。その顔には、作り物の笑顔はなくて、代わりに、目だけが真っ赤だった。

「ありがとうございます。お言葉に甘えて、じゃあ、1日だけ、デートしてください。空井一尉」
「デートじゃない。ただ、休みの日に、出かけるお前に付き合うだけだよ」
「それでもいいです。言葉なんかなんだっていいんです。ありがとうございます」

言うだけ言って、勢いよく、由香は残りのラーメンをすすった。

これで気が済むなら、それでいい。
それをみてから大祐は残りのラーメンを平らげて、余計な話をすることもなく、由香が食べ終わると、すぐに席を立った。

官舎の由香の部屋の近くまで車で送り届けると、車の時計を見る。

「明日、映画だったら時間が決まってると思うけど」
「はい。自分、空井一尉の都合のいい時間で構いません」
「……じゃあ、11時に。ここにくるから」
「1100、ここですね。了解です」

後部座席にドアを開けて、車から降りた由香は、車の中の大祐に向かって頭を下げた。

馬鹿なことだろうか。

くるっと背を向けて官舎に戻っていく由香を見送りながら、自分の部屋のある、一番奥の方へと車をゆっくりと動かして、車を停めた。大祐は、結局、まるっと潰すことになった週末を思いながら部屋へと戻る。

「……携帯、せめて買ってくればよかったかな」

部屋に戻ってからふと、そう思う。立ち上がるのも、もう一度部屋を出るのも億劫だったから、ダウンを放り出して、部屋の真ん中にごろりと仰向けに横になったまま、大祐は目を閉じる。

―― 今頃、リカは何してるかな……。連絡しないって怒ってないといいな……

泣きながら新幹線に乗ったリカのことも知らずに、大祐は様々な想いにとらわれていた。

投稿者 kogetsu

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