奥の細道、と書かれたものの前で、写真を撮る人たちを横目に、再び横断歩道を渡る。
「瑞巌寺行きましょう。ここの雰囲気、好きなんです」
「いいよ」
両脇に、土産物屋があって、大きな門をくぐるとそこから別世界のような木立の間をさくさくと音をさせながら歩く。
「空井一尉、ご結婚されてから変わりましたよね」
それまで、大祐の後ろを歩いていた由香が大祐を追い越して先を歩き出した。後ろを歩いていた時よりは、声を張り上げなくても、届きやすい。
時折、振り返りながら、少しの距離をあけて歩いていく。
「自分、基地で、奥さんの話をしている空井一尉を見てて好きになったんです。なんかすごい、いいなって」
「……しょーもないことしか言ってないよ。俺」
「でも、職場で堂々と奥さんのこと惚気られるのってすごくいいですよ。どんだけこの人、奥さんのこと好きなんだろうって思ったら、かっこいいなぁって。空幕から移動されてきて、バリバリ仕事して、奥さん大事にしてて。だから憧れたんです」
びくびくしながら、愛想を振りまいてないとダメな自分とは天地の差があって、取材に来た時のリカのことは、残念ながら目撃さえしなかったけど、噂では本当に美人な人らしい。
本人もかっこいいのに、全く自覚がなくて、女子隊員たちも、残念だと思いながらもやっぱり噂の的なのに全然気づいていない大祐に惹かれた。
「やめるって決めなかったらこんなこともしなかったです。そんな勇気が出る分だけ、最後にやめるのもまあいいかなって思えました」
「……やけくそっていうんじゃないの。そういうことがなくても、大澤はちゃんとしてたと思うけど」
「ありがとうございます。映画行くより、全然よかった。空井一尉と松島歩いたなって一生の思い出になります」
「すぐにまた違う思い出ができるよ。人生は、そこで終わりじゃないから」
いつかリカが北海道で言っていた言葉を思い出して舌に乗せる。
せめて、その想いが、由香にも伝わればいい。リカや、かつての広報室のメンバーのように、ずっと続く関係もあれば、こうして、ほんの一瞬だけクロスして、離れていく出会いもある。
眉がハの字になった困ったような、泣きたいような。
そんな顔で振り返った由香は、首を横に振った。
「そういう人もいれば、そうじゃない人もいるんです。残念ですけど」
自分は、そうじゃない方だから。
お参りができるところまで来て、手を合わせた後、その奥の有料拝観へと入ろうと、財布を取り出した大祐を由香が手を伸ばして止めた。
「もったいないです。もう、ここで。十分です。空井一尉」
「え……」
「まさか、本気で私が丸一日、付き合わせるつもりだって思ってましたか?そんなわけないじゃないですか。もうここで十分です。空井一尉と松島を歩いた。これ、立派な思い出です。あとは、自分、ここでお守り買って、一人で帰るので、空井一尉もどうぞ、帰ってください」
門から一直線の道を振り返って、大祐の顔を由香はまっすぐに見た。最後に、ゆっくりと瞼のシャッターを切ってから手を差しだす。
「あ、最後!握手いいですか?」
車を降りてから、1時間にも満たない時間しかまだ歩いていない。初めから、今までずっと、大祐には困惑しか与えなかった由香が、伸ばした手を大きく開いた。
大祐は、その手を見ただけで手を出しはしない。何も言わなくても、それが伝わったらしい。
「最後まで、冷たくて優しいですね。空井一尉」
「そんなことない」
今も、大事な人を心配させているかもしれないのに。
一番大事な人が自分とだけは手を繋げるのだと言っていたから、仕事以外では、握手もしようとは思わない。
単に、身勝手なだけだと思った大祐に、由香は一番、深く頭を下げた。
リカがずっときれいだと褒めてくれていた大祐の姿勢よりももっと柔らかくて。
「ありがとうございました。我儘に付き合って戴いて」
「……わかった。じゃあ、俺は帰るから、大澤もきちんと帰って、明日はちゃんと勤務につけよ」
「はい。わかってます」
こんなところで、放り出すように帰ると、また家にも帰らずにうろうろされても困る。今度はきちんと釘を刺して、しっかりと頷いたのを見てから、大祐は踵を返して歩き出した。
気が抜けたような、ようやく縛り付けられるような重圧感から急に解放されたような気がした。
自分を責めるのも疲れた大祐は、途中で振り返りたい気持ちを抑えて、まっすぐに歩く。門を抜けて、再び土産物屋が並ぶ通りに出てから、どっと疲れが押し寄せてきて、大祐はとにかく車に向かった。
渋滞を抜けて、これから帰って、やっとリカに連絡ができる。
連絡をしなかったことをたくさん謝って、それから、由香のことは、ちゃんと顔を見て話したい。
次の週末まで待つしかないが、電話ではなく、メールでもなく、ちゃんと話したかった。
だから、携帯を買って、家に帰って、メールや写真のデータを移すのに時間がかかった頃には、いつもの自分に戻れた気がして、新しい画面を操作して、リカの電話を呼び出した。
「もしもし。リカ?連絡、遅くなってごめん!」
努めて明るい声を上げた向こう側で、もしもしの後に泣かれてしまう。
ああ、やっぱり、余計な心配をかけていたんだと思って、ひたすら謝った。リカが泣いた本当の理由も知らずに。
途中で、何度か、思うことがあるなら言ってくれと言った。
面白おかしい話ではないし、詰られても仕方がない。聞いても気分がいいはずはないこともわかっているからと言った大祐に、片手の先だけを繋いだまま、リカは首を振った。
「……ちゃんと聞いてから言うから」
泣きだしはしなかったが、その顔は険しくて、大祐はそうだろうと思う。
その覚悟はしてきたのだから、今は、ゆっくり落ち着いて、何も隠さずにすべてを話した。
「全部、俺の自己満足だと思うし、ここでリカに全部を話すのも俺の自己満足かもしれないけど、隠し事はしないって前に約束したでしょ?」
リカが怪我をした時、必ず話そうと決めた。リアルタイムではなくても必ず、伝えようと。離れているからこそ、ちゃんと伝えあおうと約束した。
「だから、ちゃんと伝えたくて、顔を見て話したかった」
ありがとう、聞いてくれて。
話し終えた大祐は、まっすぐにリカを見つめていた。少しの不安と後味の悪さを滲ませた話は、逆にリカを冷静にさせる。